オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 金谷宿~島田宿)



 金谷宿から大井川を越えて島田宿へ入ります。1里(約4.5Km)の道のりです。



 島田宿、西の入り口ですが、川越遺跡町並が始まる川会所辺りかと思われます。
 金谷宿と島田宿の間には、大井橋、朝顔の松公園、川会所、が有ります。



 金谷宿を出て、大井川沿いを少し進むと、大井橋を渡ることになります。「箱根八里は馬でも越すが越すにこされぬ大井川」と歌われた川で東海道最大の難所です。江戸時代防衛上の理由で橋を架けるのを許さなかったそうです。
 大井川を越えると、駿河国に入ります。橋を渡り街道に戻るため、県道342に入ります。
 街道に戻ると、朝顔の松公園が有ります。浄瑠璃や歌舞伎伝説の松が生えているとの事で、公園に整備されている様です。朝顔の松の由来などは、いろんなサイトで紹介されています。向かいには、島田市博物館もあり、大井川や島田宿の様子が展示されているそうです。
 その先に川会所が復元されています。この建物は安政年間に建てられたもので、明治以降に一時移転されましたが、その後元の位置に復元されたとの事です。川越業務の管理運営を行っていた処で、国の指定史跡だそうです。



 いよいよ島田宿です。江戸から23番目の宿場で、大井川の左岸に有るため、右岸に有る金谷宿同様、大井川の増水で川越が禁止されると大そうな賑わいを見せたという事です。
 その島田宿には、川越遺跡町並み、関川庵、大井神社、問屋場跡、刀匠顕彰碑、島田一里塚、



 川会から川越遺跡町並に入ります。遺跡は1970年に復元されたものです。普通の民家と混同している様ですが昔の雰囲気が現れているそうです。
 途中、関川庵の標柱が有り街道を逸れると、浄瑠璃や歌舞伎で有名な「八百屋お七」の、お七の恋人の墓が有るそうです。
 関川庵から暫く行くと、大井神社鳥居が有り、その奥は大井神社です。創建不詳ですが貞観年間には存在していた様です。祭神は彌都波能売神、波邇夜須比売神、天照大神という事で、安産や女性、子供の神様として信仰されているそうで、神社の帯祭りは日本三大奇祭の一つとの事です。
 大井神社の先には問屋場跡と刀匠顕彰碑が有ります。共に碑だけですがこの辺りは室町時代から多くの刀工が軒を連ね今川、武田、徳川氏から評価されていたとの事です。
 問屋場跡を過ぎると、島田一里塚です碑のみですが、先には島田宿の道標が有りこの辺りが江戸からの入り口になる様です。



 島田宿の美味しい物ですが、和菓子になります。小饅頭というお饅頭で皮に特徴があるそうです。米麴を使った皮でお酒に似た香りでふっくらしているそうです。臭いはお酒でも、アルコールは無くなっているそうです。
 この後、藤枝宿2里八丁(約10.6Km)を目指します。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 日坂宿~金谷宿)



 遠江国最後の宿場、金谷宿へ向かいます一里二十四丁(約8.1Km)の距離です。



 金谷宿、西の入り口は金谷一里塚跡辺りになる様です。
 日坂宿と金谷宿の間には二の曲がり、夜泣き石跡、涼み松、鎧塚、佐夜鹿一里塚跡、扇屋、久延寺、菊川の里、石畳の菊川坂、諏訪原城址、金屋石畳、すべらず地蔵、鶏頭塚・庚申堂、石畳茶屋、旧東海道石畳道入り口、金谷一里塚跡など多くの史跡が有ります。



 日坂宿を出て、国道1号を横切ると急な登坂に差し掛かります。二の曲がりと言われる難所で小夜の中山峠を越える旅人を悩ませていました。この辺りは沓掛という土地で、峠に差し掛かったところで沓を履き替え古い沓を水に掛け旅の安全を祈願したそうです。
 途中、夜泣き石跡があります。夜泣き石自体は現在別の場所にある様です。すぐ手前には歌川広重の絵碑が有るとの事で旅人と夜泣き石を描いているそうです。
 夜泣き石跡から少し行くと、涼み松に到着です。旅人に木陰を提供してくれる大きな松が有ったという事で、これを歌った芭蕉の句碑もあります。向かいには、藤原良政の娘小石姫が自害し、ここに葬られたそうで、小石姫が身重であった事から妊婦の墓と言われています。
 涼み松のから少し進むと鎧塚が有ります。建武年間北条時行の一族名越太郎邦時が中先代の乱で京に上る途中、足利一族の今川頼国と戦い命を落とした場所で頼国によって葬られたそうです。
 鎧塚を過ぎると佐夜鹿一里塚です。江戸から54番目の一里塚で、当時は両脇に有ったそうで、道幅も三間有ったとの事です。
 その先には、子育て飴で知られる扇屋が有ります。この峠で妊婦が山賊に殺され、その時に生まれた子を水飴で育てたという伝説が有り、その水飴を売っているそうです。昔は同じような店が複数有ったようですが今はここだけらしいです。
 扇屋の直ぐ近くには久延寺が、山之内一豊が関ヶ原に向かう家康を接待した場所で、茶亭跡もあります。夜泣き石もここにあるそうです。どうも夜泣き石伝説の妊婦が小石姫ではないかと思わせるような感じです。それと、怪談噺の飴屋の幽霊とは関係が有るのでしょうか?
 久延寺の辺りが、峠の頂上らしいです。



 中山峠を降りると、菊川の里です旧東海道の宿場でしたが、江戸時代間の宿になりました。間の宿は宿場間に発展した休憩用の町場で宿は無かったそうです。その手前には、菊川の里会館があります。
 菊川の里を過ぎると直ぐに、登坂になる様です。石畳の菊川坂と言われる坂は江戸時代後期のものらしく現在は長さ161m、最大幅4.3ⅿが残っているとの事です。
 坂を登り切り少し行くと、諏訪原城址へ行く標識に差し掛かります。諏訪原城は天正年間、武田勝頼の命で築城された山城で建築物は残っていませんが堀、曲輪、馬出などの遺構が残っていて国の指定文化財となっているそうです。
 諏訪原城址への標識を過ぎると、下り坂です。金屋石畳になります。430ⅿ程の石畳ですが町民がボランティアとして石を運び復元されたとの事です。途中に有るのが、滑らず地蔵、鶏頭塚・庚申堂です。
 すべらず地蔵は六角地蔵尊とも言われ、こちらが正式名称の様です。すべらず地蔵は此処の石畳が滑らない事から来ているそうで、受験生に御利益が有るとの事です。
 鶏頭塚は俳人六々庵巴静の「曙も夕ぐれもなしけ鶏頭華」と呼んだ句碑が有る事から鶏頭塚と呼ばれたそうです。鶏頭塚の裏に庚申堂が有り、日本左衛門はここで夜働きの着替えをしたとの事です。
 石畳を下り切る手前に、石畳茶屋があります。茶屋の奥は展示室になっており、広間は休憩所で軽食やお茶が飲める様です。
 石畳を下ると旧東海道石畳道入り口になります。下ってくると出口ですが、江戸側から見ると入り口です。
 石畳が終わっても坂道は続く様です。その坂を下り踏切を渡ると、金谷一里塚跡で、いよいよ、金谷宿に入ります。



 金谷宿は遠江国最東端の宿場で、大井川が増水などで渡れなくなり足止めされると大そうにぎわったそうで、本陣が3軒有ったそうで1軒は書店として残っているとの事です。
 金谷宿には、柏屋本陣、佐塚本陣、八軒屋橋があります。



 金谷一里塚跡から進むと、柏屋本陣に差し掛かります。柵に囲まれた植え込みに表示が有るとの事です。
 その先に、佐塚書店が有りここが佐塚本陣だったそうです。後の1軒は今のところ不明です。少し行くと八軒屋橋でここが東の入り口の様です。



 さて、日坂宿・金谷宿間の美味しい物ですが、一つは当然扇屋の子育て飴が有ります。もち米と大麦を原料にした水飴で口に入れると、優しい甘みが広がるそうです。
 もう一つが、金谷宿の郷土料理で菜飯田楽です。昆布の出汁で焚いたご飯に大根の葉を振りかけた物に豆腐の田楽を添えたものです。
 次は、金谷宿から島田宿へ入ります。距離は、一里(約4.5Km)です。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 袋井宿~掛川宿)



 袋井宿を出て、掛川宿を目指します。道のりは二里十六(約10.7Km)で、東海道も後半に入ります。



 さて、掛川宿西の入り口ですが、どうやら逆川の支流倉真川に掛かる大池橋ではないか?と考えます。
 袋井宿と掛川宿の間には、七ツ森神社、九津部一里塚、富士浅間神社大鳥居、袋井松並木、花茣蓙公園、岡津の松並木、仲道寺、善光寺、大池一里塚、秋葉山神社遙拝所などの史跡が有ります。



 袋井宿を出発して暫く行くと、七ツ森神社が有ります。桓武天皇の頃、日坂宿に出没し悪さをする怪鳥を退治するため朝廷から7人の武士が派遣されましたが、返り討ちに合い7人とも命を落としました。その墓が此処にあるそうです。
 更に暫く進むと九津部一里塚に差し掛かります。袋井東小学校の校庭に有り、1973年創立百周年記念で復元されたという事です。七ツ森神社と九津部一里塚の間には油山寺、法多山道、八幡社、村松・宇刈道などへの道標があります。
 九津部一里塚の先には富士浅間神社の大鳥居が有り、神社は鳥居の先800ⅿほどの所に有るそうで国の重要文化財だそうです。又、富士山の周辺には浅間神社が何ヶ所か有り何れも富士山を御神体としています。
 大鳥居を過ぎると、袋井の松並木が有ります。松と桜に囲まれた道だそうです。
 松並木が終わり少し行くと、花茣蓙公園です。江戸時代は旅人相手の休憩所だった様で花茣蓙が有名との事です。此処は立場が有った所で、奈良時代は郡役所もあり交通の要所でも有ったそうです。
 花茣蓙公園を出て、同新橋を過ぎると、岡津の松並木が始まります。旧東海道の松ですが、近年松喰虫の被害が目立っているそうです。
 松並木が終わると、仲道寺と善光寺が有ります。仲道寺は江戸から京迄を測量したところこの寺が丁度真ん中であったから仲道寺となったというまことしやかな?話です。
 善光寺の本尊阿弥陀仏は坂上田村麻呂の守り本尊だったとの事です。
 暫く行くと連祐寺というお寺の前に江戸から59番目の大池一里塚が有るそうです。
 一里塚を過ぎて、西掛川駅の先に秋葉山神社遙拝所が有ります。東海道には秋葉常夜燈、秋葉山常夜燈などが数多く点在しています。その火防の神様の秋葉山へ通じる道の入り口だそうです。遥拝所から直ぐに大池橋です。此処から掛川宿になります。



 掛川宿は、山之内一豊が改修し棲んだ掛川城下町でもある江戸から二十六番目の宿場です。又駿河湾から秋葉山を経て信濃国へ通じる塩の道が交差する宿場でもあり江戸時代以降は秋葉街道と呼ばれたそうです。
 掛川宿には十九首塚、円万寺、掛川城、七曲、塩の道道標、などが有ります。



 掛川宿に入り少し行くと、十九首塚が有ります。現在公園に整備されているようですが、天慶の乱で藤原秀郷に滅ぼされた平将門と18人の武将の首が埋葬されているとの事です。
 十九首塚を過ぎると、円万寺に差し掛かります。元は掛川城内に有った寺院と言う事ですが、山之内一豊による城の改修の折に現在の場所に移されました。山門は蕗の門と言い掛川城廃城の時円万寺が買い受け山門としたそうです。
 その先、掛川城へと向かう道が有ります。城に向かって進むと、逆川に掛かる緑橋の先に城が見えるようです。室町時代今川氏が遠江進出の為家臣に命じて築城させたのが始まりという事です。戦国時代には山之内一豊が10年に渡り在城し、天守閣や大手門を建設し、城下の整備にも注力したそうです。
 掛川城から街道に戻り進むと七曲りに突入です。この辺りが宿場の中心の様ですが本陣や脇本陣など他の宿場に有るものが在りません。七曲りに入り直ぐに塩の道道標に差し掛かります。秋葉山神社から信濃へ行く道になります。江戸時代は七曲りに木戸や番屋が置かれていた様です。東側の七曲り表示迄行くと東の入り口になります。



 掛川宿で美味しいものは?決まっています。ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)で紹介されていたのですが、掛川本陣通りの屋台街、掛川宿で無いと、という訳ではありませんが此れはこれでそそられます。掛川で宿泊して、本陣通りで一杯しか頭にはありません。
 次は、掛川宿から日坂宿に向かいます。一里十九丁(約6.9Km)の道のりになります。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 見付宿~袋井宿)



 4月3日のちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)では、浜松宿から舞阪宿へ向かっていました。番組では龍雲寺でダウン症の書家が書いた世界一大きな般若心経とスズキ自動車を紹介していました。
 見付宿から袋井宿を目指します。一里半(約6.9Km)の道のりです。



 袋井宿、西の入り口は御幸橋辺りの様です。インターネットでは袋井宿出口と表記されている場合も有ったので、御幸橋を西の入り口とします。
 見付宿と袋井宿の間には、阿多古山一里塚、旧東海道入り口、遠州鈴ヶ森跡、大日堂、鎌倉の古道道標、江戸の古道道標、明治の道道標、大正の道道標、木原畷古戦場、木原一里塚、旧澤野医院などの史跡が有ります。



 見付宿を出発すると、直ぐに阿多古山一里塚が道の両脇に有ります。一里塚の裏には、阿多古神社が有りますもう少し手前に登り口がある様です。
 少し行くと、旧東海道入り口になります。県道413号を逸れる様に街道が続きます。その先には遠州鈴ヶ森跡が有ります。江戸時代の処刑場だったとの事で、供養塔も建っており、日本左衛門の首が晒された所らしいです。
 暫く行くと、鎌倉の古道道標、江戸の古道道標、明治の道道標、大正の道道標が続いています。この辺りは三ケ野七つ道と言われ、鎌倉、江戸、明治、大正、東海道、昭和の道、平成の道と7つの道が集中しています。東海道を進む訳ですが、途中街道が途切れ、鎌倉、江戸、明治、大正の何れかを通るか、手前で迂回するかと言う事になる様です。どうやらメイン道路は明治の道の様です。途中大日堂へ行く道が有り、ここは、上洛を目指す武田信玄を迎え撃つ家康軍の本田平八郎が木に登り見張りをした所だそうです。高台にあるため太田川の向こうが一望出来るとの事です。
 明治の道を進み、東海道に戻り少し行くと、太田川です。渡ると、袋井市に入ります。
 暫く進むと、袋井市の指定文化財、旧澤野医院が有ります。幕末から昭和初期の間に建てられた4棟の建物で、構成されています。東海道面した医療建築物として貴重な存在らしいです。その先に袋井宿西の入り口御幸橋です。
 袋井市に入り少し行くと、木原畷古戦場に差し掛かります。この辺りで陣を張った武田信玄軍と家康軍の兵が小競り合いを繰り返した場所と言う事で、三方が原合戦に発展してゆきました。近くには郷社許禰神社が有り、家康が腰を掛けたといわれる石があるそうです。その先には木原一里塚が復元されています。



 江戸と京、どちらからも27番目の宿場袋井宿は、東海道整備時は設置されておらず、隣の見付宿と掛川宿の間に遅れて設置されました。規模は小さく、500m程の街並みですが、遠州三山や他の神社や仏閣も有りその門前町として栄えたそうです。
 袋井宿内には、高札場、宿場公園、東本陣跡、ど真ん中茶屋、袋井宿石柱などの史跡が有ります。



 御幸橋を渡った所に、高札場が復元されており、周辺は本町宿場公園として整備されているそうです。その先には袋井宿場公園と東本陣跡が有ります。袋井宿には後、西本陣と中本陣が有るのですが、民家の脇にひっそりと看板が有るようで見つけるには困難を要するみたいです。
 東本陣跡は三つの本陣の内唯一復元されています。1991年に発掘調査が行われ、建物の1分が発見された事から復元されたのでしょう。その斜め向かいには袋井宿場公園が整備されています。ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)や所さんお届けモノです!でも紹介された、丸凧の保存会も公園の側にある様です。
 少し先には、ど真ん中茶屋があります。地元のボランティアの方が運営されているとの事です。袋井市では街が東海道の真ん中と言う事でど真ん中と言う言葉が至る処に掲げられているそうです。
 その先に袋井宿石柱が立っていて、ここが東の入り口の様です。



 袋井宿に美味いもんは無いのか?思っていたら有りました。袋井で頂かなければいけません。たまごふわふわと言う料理だそうです。この料理は江戸時代から伝わる料理で卵と出汁を泡立てたような感じです、早い話が卵かけご飯の豪華版という印象を持ったのですが実際の所はどうなのでしょうか?多くのお店で頂けるそうです。
 この後は掛川宿を目指します。二里十六丁(約10.7Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 浜松宿~見附宿)



 見附宿を目指します。道のりが四里七丁(約14.7Km)という長い距離です。



 見附宿の西の入り口は、見附宿西木戸になります。
 浜松宿と見附宿の間には、旧掛塚街道入口、旧笠井街道入口、馬込一里塚、龍梅禅寺、神明の鳥居、子安神社、安間一里塚、明善記念館、かやんば高札場跡、六所神社、天竜川木橋跡、舟橋跡、玉座迹碑、舟橋之記碑、天竜川橋、池田の渡し、長森立場跡、宮之一色一里塚、善導寺の大楠、遠江国分寺跡、など多数の史跡が有ります。



 馬込橋東詰にある外木戸跡の標識を後に浜松宿を出発します。すぐに掛塚街道と笠井街道の入り口、その先には馬込一里塚が有りますが何れも標識のみとなっている様です。
 少し行くと、龍梅禅寺です。享保年間の浜松城主松平信祝の娘が旅の途中に病に倒れ亡くなり、この寺に葬られたという事です。その先に、蒲神明宮への入り口がありそこには神明の鳥居が建っています。
 大鳥居を過ぎると、子安神社が有ります。土地の庄屋が浅間神社から分霊したのが始まりとされますが、源範頼が娘の無事出産を願い創建したという説も有るという事です。
 暫く進むと、安間一里塚に差し掛かりますが標柱だけの様です。同じ位行くと、明善記念館があります。金原明善と言う人物の記念館で、この人物は明治から大正の実業家で天竜川の治山、治水、森林水害予防に資財を投じて貢献した人物だそうです。記念館の向には生家も有るとの事です。その先に、かやんば高札場跡、六所神社を過ぎると天竜川沿いに出ます。六所神社は、浜松市内位には何か所かある様です。篠山市の二村神社の様な感じでしょうか?
 天竜川沿いに出ると、天竜川木橋跡、舟橋跡、玉座迹跡、舟橋の記が続けて有ります。何れも標柱や碑のみです。玉座迹跡、舟橋の記は明治天皇が東幸の際、船をつなぎ橋を作ったといわれる所です。それを過ぎると、天竜橋を渡ることになります。
 天竜橋を渡ると、磐田市に入ります。橋を渡って上流には、池田の渡しが有り、付近には池田橋跡、渡船場跡、歴史風景観、などが有り池田の渡し公園として整備されているそうです。
 街道に戻ると、長森立場があります。天竜川の側に有った為、川越をする人、した人で賑っていたそうで、ここの名物に長森膏薬と言うものが有りました。あかぎれや切り傷に効いたという事です。少し行くと宮之一色一里塚の碑が立っています。更にその先、JR磐田駅前に善導寺の大楠が有ります。過っては、ここが善導寺の境内だった事からそう呼ばれているとの事で、樹齢700年以上で県の天然記念物にもなっています。現在善導寺は郊外に移転しています。
 大楠を過ぎると遠江国分寺跡に差し掛かります。天平時代の遺跡のようで、国分尼寺の講堂跡も発掘されているそうです。付近には府八幡宮と万葉歌碑が立っています。その先には、西の入り口、西木戸になります。



 見付宿は、江戸から28番目の宿場です。見附は水に接する土地で有る事が由来となっていますが、他にも京から来て初めて富士山が見える事から見附となったという説も有ります。元々遠江国の国府が置かれたところで、中世には東海道屈指の宿場でしたが、江戸時代には単なる宿場町となりました。



 見付宿には、姫街道入口、見附小学校、高札場、北本陣、南本陣、脇本陣、問屋場、東の木戸跡などの史跡が有ります。
 西木戸跡から直ぐに、姫街道入口に差し掛かります。此処が姫街道の起点になり新居関を避ける為女人はこちらをよく通っていた道です。本当は、本坂越え追分と言います。
 姫街道入口の先には、ちちんぷいぷいでも紹介された、見附小学校です。現存する日本最古の木造疑洋風小学校校舎で国の史蹟になっているそうです。隣には淡国玉神社も有ります。
 見附小学校を過ぎると、高札場、北本陣、南本陣、脇本陣、問屋場の碑や標識が続きます。問屋場から少し行くと、東の入り口、東木戸跡に到着です。



 見付宿の美味しいものですが、調べても、見付宿で食べなければならない様なものは、見つかりませんでした。
 次回は、袋井宿に向かいます。一里半(約6.9Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 舞阪宿~浜松宿)



 3月29日の「所さんお届けモノです!」では、チャンカワイさんが金谷宿、島田宿、藤枝宿、岡部宿、鞠子宿歩いて、東海道の創業100年以上の老舗の新名物を紹介していました。昔の人はエライ!も、もう少しで追いつけそうです。



 舞阪宿から浜松宿へ向かいます。二里三十丁(約12.1Km)の道のりです。
 丁度、MBSの、ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)では、浜松宿・舞阪宿の辺りを歩いています。という事は・・・、妄想ではどこかで、出会った事になります。



 浜松宿、西の入り口はハッキリしません。鎧橋辺りから浜松宿と言う感じでしょうか?
 舞阪宿と浜松宿の間には、浪小僧像、舞阪松並木、春日神社、秋葉常夜燈、篠原一里塚、立場本陣跡、高札場跡、二つ御堂、若林一里塚、などの史跡が有ります。



 舞阪見付石垣を出発して、国道301号との交差点辺りに浪小僧像が有ります。海が荒れたり、風が強くなる時に海の中から太鼓で知らせてくれるそうです。
 浪小僧像を過ぎると、舞阪の松並木が続いていきます。江戸時代街道に松や杉を植えさせたのが始まりとされます。此処の松並木は正徳年間1420本の松が植えられたそうです。現在は、700mに渡り、370本の松が植わっているそうです。松並木の中ほどには、舞阪宿の碑が置かれています。ここで、舞阪宿を離れることになります。
 松並木が終わった、辺りに春日神社が有ります。奈良の春日神社から勧請されたものだそうです。進んでいくと、秋葉常夜燈が点在しています。
 暫く行くと、篠原一里塚の看板が設置されています。近くには立木本陣跡がありますが、看板だけの様です。その先に高札場跡の標識があります。その手前に麦飯長者の標識も有り、昔小野田五郎兵衛と言う長者が旅人に麦飯を振舞った事から麦飯長者と呼ばれたという言い伝えらしいです。



 高札場跡から少し進むと、二つ御堂で、北堂と南堂が有ります。奥州平泉の藤原秀衡が京で大病を患っていると聞いた愛妾が京へ上る途中、この地で秀衡死去の知らせを聞き菩提を弔うため北堂を建立しましたが、秀衡死去は誤報で、病が回復し帰国途中の秀衡はこの話を聞いて南堂を建立したという話だそうです。
 二つ御堂を過ぎると、八丁畷が始まります。八丁畷は真っ直ぐな道が八丁続く事から言われています。
 八丁畷に入ると直ぐに若林一里塚の碑が有ります。その先、鎧橋に差し掛かります。この辺りが浜松宿西の入り口でしょうか?
 浜松宿は、江戸から29番目、京から25番目の宿場ですが距離的には、江戸と京の丁度中間点にあたるとの事です。又、浜松城の城下町としても栄え、遠江国、駿河国を通じて最大の宿場でした。
 浜松宿の宿場内には、鎧橋、子育て地蔵尊、番所跡、梅屋本陣、川口本陣、杉浦本陣、佐藤本陣、高札場跡、大手門跡、浜松城、などの史跡が有ります。



 浜松宿西の入り口では?と思う鎧橋は、平安時代末期比叡山の雑兵に鴨江寺を攻められた時、寺の軍兵が鎧を着てこの橋で守ったという処から鎧橋と言われるようになったそうです。
 鎧橋の先、八丁畷が終わった所には、子育て地蔵尊が有ります。数体の石仏が並んで祀られているそうです。
 子育て地蔵尊を過ぎた先に、番所跡、梅屋本陣、川口本陣、杉浦本陣、佐藤本陣、高札場跡が続けて現れます。何れも碑か看板のみとなっています。この辺りは浜松宿本陣通りと呼ばれている処です。
 本陣通りを抜けた所の交差点に、大手門跡の碑が立っています。交差点を右に行くと街道、直進すると浜松城となります。浜松城は15世紀の築城時は曳馬城と呼ばれていました。1570年徳川家康が入城し浜松城に改名したとの事です。その後、歴代城主の多くが幕府の重役に就き出世城とも呼ばれたそうです。城址は戦後、浜松城公園として整備され、1958年天守が再建されました。
 交差点に戻り、街道を暫く行くと、馬込橋です。此処が東の入り口と言う事になります。



 さて、浜宿の美味しい物は、鰻ばかりに頭が行っていましたが、浜松餃子が有りました。他には遠州焼と言う粉もんがあるそうです。丁度関西で言う葱焼に沢庵が入った物の様な感じらしいです。
 次は、浜松宿から見付宿を目指します。距離にして四里七丁(約14.7Km)となります。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 新居宿~舞阪宿)



 新居宿から舞阪宿へ向かいます。江戸時代は、渡し船で一里の距離でしたが、現在は、陸路で約6.6Kmの道のりになります。



 舞阪宿の、西の入り口は北雁木常夜燈辺りかとおもわれます。
 新居宿と舞阪宿の間には、西浜名橋、中浜名橋、弁天神社、が有ります。



 西浜名橋、中浜名橋、弁天橋は浜名湖を渡る橋です。浜名湖は元々、淡水湖で、新居と舞阪も陸続きで、海面より湖面が高く海水が流れ込むことは有りませんでした。しかし、明応地震の地盤沈下で、海水が流れ込むようになり、宝永地震の津波などで、湖と海を隔てていた陸地が決壊し汽水湖となりました。決壊した場所を今切と呼ばれるようになったとの事です。江戸時代以前は渡し船で、渡っており今切の渡しと言われていました。現在は三つの橋によって陸路で行き来出来るようになっています。
 新居宿を出て、国道203号をしばらく進むと西浜名橋、を渡ることになります。西浜名橋から少し進み中浜名橋を渡ると弁天神社に差し掛かります。
 弁天島にある弁天神社ですが、昔弁天島は砂洲が続き天橋立の様な景色だったそうで、その美しさに誘われ天女が舞い降りたという天女伝説が残っている処です。橋立の丹後地方にも天女伝説が有りますが、丹後地方の話が元になっているのでしょうか?宝永地震の跡ここに弁天神社が建立されたとの事です。境内には正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑も有ります。弁天神社の先には弁天橋が有り、渡ると間もなく、舞阪宿に入ります。
 舞阪宿は、江戸から30番目の宿場で、今切の渡しが控える宿場と言う事から新居宿同様、重要視されていました。



 舞阪宿の中には、北雁木跡、本雁木跡、南雁木跡、西町常夜燈、旧脇本陣茗荷屋、舞阪本陣跡、仲町常夜燈、舞阪一里塚、新町秋葉常夜燈、見附石垣など、沢山の史跡が有ります。



 弁天橋を渡り間もなく、北雁木跡があります。雁木(がんぎ、地元ではがんげ)とは階段状の船着き場を言うそうです。北雁木では、大名や幕府公用役人が使っていました。近くには北雁木常夜燈も有ります。復元されているのは、この北雁木だけとの事です。
 北雁木の先に、本雁木跡と本雁木常夜燈が有ります。本雁木では、一般の武家や庶民が使用していたという事です。
 街道を離れ南に行くと、南雁木です、ここは荷物用ですが庶民も利用していた様です。
 街道に戻ると西町常夜燈に差し掛かります。この常夜燈は文化年間舞阪宿に大火事が有り、その復興を願って建てられたものだそうです。
 その先に、旧脇本陣茗荷屋がります。脇本陣茗荷屋の建物は天保年間に建てられたものを修復・復元したもので、現在一般公開されているそうです。その向かいには本陣跡の碑が立っています。
 脇本陣、本陣、を過ぎて少し行くと仲町常夜燈が、その先にも新町秋葉常夜燈が有ります。舞阪宿には結構常夜燈があります、文化年間の大火事で火防せ、や秋葉信仰が高まり常夜燈が設けられたという事です。秋葉常夜燈の側には舞阪一里塚とその碑もあります。
 秋葉常夜燈を過ぎると見付石垣に差し掛かります。どうやら、此処が東の入り口の様です。



 さて、舞阪宿で頂かなければならない物は?やはり、鰻となりますが、舞阪は漁師街でもあります。冬の牡蠣や、秋の真鯛、活きた車海老をそのまま揚げた「活き車海老天丼」などがおすすめだそうです。



 この先は、浜松宿になります。道のりは二里三十丁(約12.1Km)になります。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 白須賀宿~新居宿)



 新居宿を目指す旅です。距離は一里二十四丁(約4.8Km)となっています。



 新居宿の、西の入り口は棒鼻跡の辺りの様です。白須賀宿と新居宿の間には明治天皇御野立所阯、立場跡、浜名の松並木、紅葉寺、橋本宿跡、風炉の井などの史跡が有ります。



 白須賀宿を出て暫く行く明治天皇御野立所阯が有ります。明治元年東京へ行幸した明治天皇が休憩した所だそうです。柵に囲まれて石碑が有るとの事です。その先に立場跡が有り碑だけが建っている様です。
 立場を過ぎると直ぐに、浜名の松並木が続いています。松並木の途中には、「藤原為家と阿仏尼の歌碑」も建っています。
 松並木が終わった辺りに紅葉寺が有ります。室町六代将軍足利義教がこの寺で紅葉を観た事から紅葉寺と言うそうです。現在寺は、参道だけが残っているそうです。
 紅葉寺から少し行くと、橋本宿になります。民家の前に碑が有り、辺りは街並みが残っているとの事です。橋本宿は新居宿の加宿でした。
 橋本宿から少し行くと、風炉の井です。源頼朝が上洛の際、この井戸水を茶の湯に使ったと言われています。その先は棒鼻跡、新居宿になります。



 江戸から31番目の宿場、新居宿です。平安から中世までは橋本宿が繁栄していたとの事ですが、室町時代の明応地震とその津波で壊滅、新居地区に移転し新居宿となりました。その後も、元禄年間に高潮と津波、宝永年間には宝永地震とその津波に見舞われています。
 新居宿には、棒鼻跡、新居一里塚、寄馬跡、本陣跡、紀伊国屋、新居関、渡船場と史跡が有ります。



 棒鼻跡の棒鼻は駕籠の棒先の事で、大名行列が宿場に入るとき棒先で先頭を整えた場所と言われていますが、実際には道の両側から土塁が出て道幅が狭く一度に大人数が通れない様にしたものらしいです。碑のみが立っているそうです。棒鼻跡の近くに新居一里塚の碑が立っています。
 少し行くと、寄馬跡と本陣跡に差し掛かります。碑があるだけなのですが本陣は三軒有り、疋田八郎兵衛本陣跡、飯田武平衛本陣跡、疋田弥五郎本陣跡とそれぞれの碑が立っているそうです。
 本陣跡を過ぎると、旅籠紀伊国屋が有ります。徳川御三家、紀州藩の御用宿を務めた事から紀伊国屋の屋号を掲げる事を許されたとの事です。現在は資料館になっています。
 その先に、新居関と渡船場が有ります。新居関は家康が新居の元屋敷に創設したのが始まりらしいのですが度重なる災害で、移転が繰り返され、元禄年間に現在の場所に置かれたそうです。創設当初は、今切関所と呼ばれていたとの事です。現在関所は修復され資料館として公開されています。
 江戸時代、新居宿・舞阪宿間は船で行き来していたようで、その渡船場が関所の前に復元されて有るという事です。



 新居宿で美味しいものは、浜名湖畔にある新居宿ですから鰻が先ず思い浮かびますが、どうも湖西市は和菓子が有名な様です。一つが「すわま(すあま)」で、上新粉に砂糖と湯を練り合わせ軽く搗き餅状にした和菓子で、桃の節句の頃新居で売られるそうです。もう一つ、「はまぐり」と言う栗が丸ごと一つ入ったどら焼きが有名だそうです。
 新井宿の次は舞阪宿に向かいます。一里(約6.6Km)の距離ですが一里と言うのは海上での距離だそうです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 二川宿~白須賀宿)



 二川宿から白須賀宿を目指します。距離にして二里十六町(約8.1Km)の道のりです。



 県境を越えると、間もなく白須賀宿西の入り口にあたる高札場立場跡です。二川宿と白須賀宿の間の史跡は細谷一里塚があるだけです。



 細谷一里塚は、二川宿を出て暫く行かなければなりません。豊橋には、4つの一里塚が有り細谷一里塚だけが現存する一里塚との事です。地元では一里山一里塚と言うそうです。この一里塚の手前で、冬場の天気の良い日には富士山を観ることが出来るらしいです。
 細谷一里塚から少し行くと、いよいよ静岡県遠江国に入ります。間もなく、白須賀宿です。
 白須賀宿は江戸から32番目の宿場で、県境を越えた辺りは境宿と呼ばれたようで柏餅が有名で白須賀名物だったらしいです。
 この宿場は、1707年宝永地震とその津波で大きな被害を受け、現在の位置に移りました。



 白須賀宿には、高札場立場跡、庚申堂、火防樹、脇本陣跡、本陣跡、曲尺手、潮見坂公園、おんやど白須賀、潮見坂、蔵法寺、高札場跡などの史跡が有ります。境宿も白須賀宿の1部になります。
 高札場立場跡は碑だけが立っている様です。庚申堂は1681年建立されましたが、現在のものは1841年再建されたものだそうです。境内には庚申信仰の三猿(見ざる聞かざる言わざる)像が有ります。
 庚申堂の先に、火防樹という槇が建っています。高台に移転した白須賀宿ですが、今度は強い西風により大火が起こりやすくなりました。その延焼を食い止める為に設けられたそうです。
 火防樹を過ぎると脇本陣跡、本陣跡、に差し掛かりますがこの2つは碑のみの様です。少し行くと、曲尺手が有ります。軍事目的以外にも格の低い大名が近くの寺で休憩を装い格上の大名をやり過ごしていたとの事です。
 この先、潮見坂公園の少し手前から格子戸が有る古民家が立ち並んでいる様で、城下町の風情が味わえそうです。
 潮見坂公園は織田信長が武田勝頼を滅ぼし尾張に戻る際、ここで家康にもてなされたという事です。大正時代に公園として整備されたそうですが、現在は碑だけになっています。
 どうやら、潮見坂公園の辺りから坂道になっているようです。そうです坂の頂上に、おんやど白須賀が有ります。おんやどと言うネーミングから、ホテルか旅館と勘違いしそうですが、歴史資料館の様です。休憩所も兼ねています。
 おんやど白須賀の辺りが潮見坂になります。江戸時代には街道一の景勝地で、西国から江戸に向かう時は、最初に太平洋が見える所だったそうです。
 潮見坂を下り少し行ったところから街道を逸れると蔵法寺です。本尊は海から引き揚げられた潮見観音との言い伝えです。遠州灘を行き交う船は帆を下げ観音様の名前を念じて通ったそうです。
 街道に戻り少し行くと、高札場跡になります。碑しか有りませんが、側には、白須賀一里塚の碑も立っています。



 白須賀宿で食さなければいけない物は…と考えると、やはり柏餅です。秀吉が小田原攻めに出兵の際、境宿で休憩し名物の柏餅を「かちわ餅」と聞き間違え縁起が良いと言う言い伝えがあるそうで、春にその、勝和餅を再現し売られているとの事です。



 次回は、白須賀宿から新居宿に向かいます。一里二十四丁(約4.8Km)の道のりです。