オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 藤枝宿~岡部宿)



 今回は岡部宿を目指します。一里二十九丁(約5.5Km)の道のりです。



 岡部宿、西の入り口ですが市役所の岡部支所の近くにある桝形跡辺りかと思われます。
 藤枝宿と岡部宿の間には、須賀神社、鬼島一里塚、横内橋、慈眼寺、岡部の松並木、五智如来、などが有ります。



 藤枝宿を出発し少し行くと、須賀神社です。境内には、樹齢500年とも言われる大楠が有ります。根回り15.2ⅿ樹高23.7ⅿと言う大きさで県の天然記念物との事です。
 須賀神社を過ぎて行くと、鬼島一里塚に差し掛かります。民家の前に標識だけがある様です。
 その先、少し行くと横内橋が有ります。横内橋は朝比奈川に架かる橋ですが、この地域は文禄年間豊臣家家臣池田孫次郎輝利が村人に河川改修を指導し白髭神社を祀り開村した地域だそうです。
 その先には、慈眼寺が有ります。西了山 慈眼寺は慶長年間、横内村が開村したのを機に、先祖の菩提供養の為に新寺を建立する機運が高まり開創された寺院だそうです。
 慈眼寺から少し行くと、松並木に差し掛かります。岡部の松並木と言われ、大事にされているとの事です。
 その先に、五智如来が有ります。元は、寛永年間に開山したといわれる誓願寺に安置されていたそうですが、それを現在の場所に移し,公園として整備されています。五智如来像は田中城主が誓願寺に病気平癒の祈願をしたところ成就し、そのお礼として寄進されたとの事です。五智如来は5体で1組ですが、もう1組明治の中頃に作られています。
 直ぐに桝形跡に到着です。此処が岡部宿の入り口にあたります。



 江戸から21番目の岡部宿は、五十三次が整備されて、一年遅れで設立された規模の小さな宿場でしたが、寛永年間に参勤が制度化されたことにより宿場業務が増大し隣接する内谷村新町が加宿されました。
 岡部宿には、問屋場跡、姿見の橋、高札場跡、岡部宿内野本陣跡、旅籠柏屋などの史跡が有ります。



 宿場に入り進むと、街道には問屋場跡、高札場跡、本陣跡などの碑が点在しています。
 問屋場跡と高札場跡の間に有るのが、姿見の橋です。この橋は小野小町が景色を眺めていて、下を見ると水に映った自分の顔に老いの身を嘆いたという橋だそうです。確か「丹後LEGEND of sevens Princess」では、丹後で亡くなったはずですが、小町伝説は至る処に有ります。こちらの伝説はどういった言い伝えが有るのでしょうか?
 本陣跡を過ぎると、旅籠柏屋になります。柏屋は岡部宿を代表する旅籠でした。1998年に国の登録有形文化財に登録されたとの事で現在、建設当時の姿が再現され歴史資料館となっているそうです。この先岡部川辺りが東の入り口らしいです。



 さて、岡部宿での御馳走を探したのですが、ご当地グルメとなるものは見つかりませんでした。
 次は、鞠子宿を目指します。距離にして一里二十九丁(約8.5Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 島田宿~藤枝宿)



 島田宿から藤枝宿二里八丁(約10.6Km)を目指します。



 藤枝宿の、西の入り口は、瀬戸川に架かる勝草橋辺りが入り口の様です。
 島田宿と藤枝宿の間には、栃山橋、上青島一里塚、染飯茶屋蹟碑、千貫堤、東海道追分、六地蔵堂、田中藩領傍示石、志田一里塚、などの史跡が有ります。



 島田宿を出て、少しすると、栃山橋を渡ります。此処から藤枝市に入ります。旧道の松並木を進んで行くと、上青島一里塚に差し掛かります。江戸から51番目の一里塚ですが碑のみとなっています。
 一里塚の先には、染飯茶屋蹟が有ります。染飯というのは、くちなしで黄色く染めたおこわで、瀬戸(藤枝)の名物として旅人に提供されていたそうです。現在染飯を頂く事は出来るのでしょうか?
 染飯茶屋の側には千貫堤が有り、寛永年間大井川の氾濫から守るための大堤防です。その費用が千貫だったという事で、その名が付いたという事です。
 千貫堤の先は、東海道追分です。大井川の氾濫はこの辺り迄被害が及んでいた様で、古東海道は北側の尾根伝いに来ていた様です。
 追分を過ぎると、六地蔵堂があります。六地蔵堂がある鏡が池に龍が住んでおり旅人を悩ませていたのを鬼岩寺二世静照上人により退治され、鏡池堂が立てられ六地蔵が祀られたという事です。
 六地蔵堂から少し進むと田中藩領傍示石に差し掛かります。染飯茶屋の手前にも田中藩領傍示石が有り、この辺りは田中藩領と掛川藩領が入り組む地域で、藩鏡に境界を示す傍石が建てられたという事です。
 田中藩領傍示石を過ぎて進むと、志田一里塚です、すぐそばに、勝草橋が架かっています。勝草橋を渡ると藤枝宿です。



 江戸から22番目の宿場である藤枝宿は、城下町としても、塩の産地であった田沼街道分岐点としても、更に商業地としても栄えた宿場です。又、藤枝ダルマや桐ダンスなどの伝統工芸も有名との事です。
 藤枝宿には、正定寺、問屋場跡、上本陣、下本陣、大慶寺、蓮生寺、白子由来記、東海道藤枝宿左車町、田中城、などが有ります。



 勝草橋を渡ると、正定寺が有ります。境内には、享保年間、当時の田中城城主が、報恩謝徳として寄進したという「本願の松」が植えられています。傘型の姿が特徴的で延命の松とも言われているそうで、市の天然記念物との事です。
 正定寺を過ぎると問屋場跡、上本陣、下本陣が続きますが、碑ではなく歩道にタイルが埋め込まれているそうです。
 その先を行くと大慶寺に差し掛かります。大慶寺は日蓮宗の寺院で山号は延妙山大慶寺となります。建長年間比叡山に遊学していた日蓮聖人が藤枝に立ち寄った時、若き日蓮の説法に教化された夫婦が持仏堂として建立した法華堂が起源だそうで、その後田中城の祈願所となり栄えたとの事です。境内には、当時の日蓮聖人が自ら植えたと伝わる黒松が有り県の天然記念物だそうです。
 大慶寺の先は蓮生寺です。蓮生寺は浄土真宗大谷派の寺院で熊谷山蓮生寺と言い建久年間蓮正(熊谷直実)開山となり創建されたという言い伝えです。享保年間駿河国田中藩主となった本多氏の菩提寺となったそうです。境内には、市指定の天然記念物イブキが植えられているとの事です。
 蓮生寺の近くに、白木由来記の碑が有るとの事です。本能寺の変の時、徳川家康を助けた伊勢国白子の小川孫三が家康の恩賞を受けこの地に移り住んだという事です。
 その先に東海道藤枝宿左車町が有ります。鎌倉6代将軍源宗尊が京から鎌倉に下る時乗っていた車の左車輪が折れてここに埋めた事から着いた地名だそうです。江戸時代はこの辺りが東木戸だった様で東の入り口と言う事です。
 そこから街道を1Km程南下すると、田中城に着きます。田中城の歴代城主の殆どが幕閣入りを果たしており、田中藩主、城主になる事は幕政に参加する登竜門であった様で、天文年間今川氏により築城され、天正年間徳川の攻撃により開城し慶長年間徳川の酒井忠利が入城したとの事です。城は、平城で天守閣は無かった様です。現在周辺は田中城下屋敷として整備されています。



 さて、藤枝宿で頂かなければいけない物は?と言うと、当然、朝ラーですね!ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)や、所さんお届けモノです!でも紹介されています。元は茶業関係者の食文化で、収穫や取引が早朝から行われるため早朝から来客が多く有るため朝ラーの文化が始まったそうです。本来の中華そばの温と、甘めのスープにわさび・生姜を添えられた冷の2種類を1セットで頂くものです。もう一つ気になっているのが、染飯ですが、こちらは藤枝駅前のお弁当屋さんで販売されているとの事です。
 この後、岡部宿へ一里二十九丁(約5.5Km)の道のりを行きます。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 舞阪宿~浜松宿)



 3月29日の「所さんお届けモノです!」では、チャンカワイさんが金谷宿、島田宿、藤枝宿、岡部宿、鞠子宿歩いて、東海道の創業100年以上の老舗の新名物を紹介していました。昔の人はエライ!も、もう少しで追いつけそうです。



 舞阪宿から浜松宿へ向かいます。二里三十丁(約12.1Km)の道のりです。
 丁度、MBSの、ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)では、浜松宿・舞阪宿の辺りを歩いています。という事は・・・、妄想ではどこかで、出会った事になります。



 浜松宿、西の入り口はハッキリしません。鎧橋辺りから浜松宿と言う感じでしょうか?
 舞阪宿と浜松宿の間には、浪小僧像、舞阪松並木、春日神社、秋葉常夜燈、篠原一里塚、立場本陣跡、高札場跡、二つ御堂、若林一里塚、などの史跡が有ります。



 舞阪見付石垣を出発して、国道301号との交差点辺りに浪小僧像が有ります。海が荒れたり、風が強くなる時に海の中から太鼓で知らせてくれるそうです。
 浪小僧像を過ぎると、舞阪の松並木が続いていきます。江戸時代街道に松や杉を植えさせたのが始まりとされます。此処の松並木は正徳年間1420本の松が植えられたそうです。現在は、700mに渡り、370本の松が植わっているそうです。松並木の中ほどには、舞阪宿の碑が置かれています。ここで、舞阪宿を離れることになります。
 松並木が終わった、辺りに春日神社が有ります。奈良の春日神社から勧請されたものだそうです。進んでいくと、秋葉常夜燈が点在しています。
 暫く行くと、篠原一里塚の看板が設置されています。近くには立木本陣跡がありますが、看板だけの様です。その先に高札場跡の標識があります。その手前に麦飯長者の標識も有り、昔小野田五郎兵衛と言う長者が旅人に麦飯を振舞った事から麦飯長者と呼ばれたという言い伝えらしいです。



 高札場跡から少し進むと、二つ御堂で、北堂と南堂が有ります。奥州平泉の藤原秀衡が京で大病を患っていると聞いた愛妾が京へ上る途中、この地で秀衡死去の知らせを聞き菩提を弔うため北堂を建立しましたが、秀衡死去は誤報で、病が回復し帰国途中の秀衡はこの話を聞いて南堂を建立したという話だそうです。
 二つ御堂を過ぎると、八丁畷が始まります。八丁畷は真っ直ぐな道が八丁続く事から言われています。
 八丁畷に入ると直ぐに若林一里塚の碑が有ります。その先、鎧橋に差し掛かります。この辺りが浜松宿西の入り口でしょうか?
 浜松宿は、江戸から29番目、京から25番目の宿場ですが距離的には、江戸と京の丁度中間点にあたるとの事です。又、浜松城の城下町としても栄え、遠江国、駿河国を通じて最大の宿場でした。
 浜松宿の宿場内には、鎧橋、子育て地蔵尊、番所跡、梅屋本陣、川口本陣、杉浦本陣、佐藤本陣、高札場跡、大手門跡、浜松城、などの史跡が有ります。



 浜松宿西の入り口では?と思う鎧橋は、平安時代末期比叡山の雑兵に鴨江寺を攻められた時、寺の軍兵が鎧を着てこの橋で守ったという処から鎧橋と言われるようになったそうです。
 鎧橋の先、八丁畷が終わった所には、子育て地蔵尊が有ります。数体の石仏が並んで祀られているそうです。
 子育て地蔵尊を過ぎた先に、番所跡、梅屋本陣、川口本陣、杉浦本陣、佐藤本陣、高札場跡が続けて現れます。何れも碑か看板のみとなっています。この辺りは浜松宿本陣通りと呼ばれている処です。
 本陣通りを抜けた所の交差点に、大手門跡の碑が立っています。交差点を右に行くと街道、直進すると浜松城となります。浜松城は15世紀の築城時は曳馬城と呼ばれていました。1570年徳川家康が入城し浜松城に改名したとの事です。その後、歴代城主の多くが幕府の重役に就き出世城とも呼ばれたそうです。城址は戦後、浜松城公園として整備され、1958年天守が再建されました。
 交差点に戻り、街道を暫く行くと、馬込橋です。此処が東の入り口と言う事になります。



 さて、浜宿の美味しい物は、鰻ばかりに頭が行っていましたが、浜松餃子が有りました。他には遠州焼と言う粉もんがあるそうです。丁度関西で言う葱焼に沢庵が入った物の様な感じらしいです。
 次は、浜松宿から見付宿を目指します。距離にして四里七丁(約14.7Km)となります。