オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 鳴海宿~池鯉鮒宿)



 2月16日の所さんお届けモノです!では、チャンカワイさんが東海道見付宿から袋井宿、掛川宿、日坂宿、金屋宿と歩いていました。これで、ちちんぷいぷいの昔の人は偉かったと出会った事になります。



 鳴海宿から池鯉鮒宿二里三十丁(12.2Km)の妄想です。地鯉鮒宿は知立宿とも表示することがあるようです。



 池鯉鮒宿の京都側の入り口は、知立古城址を過ぎた辺りが入り口にあたります。
 鳴海宿から池鯉鮒宿の間には岡家住宅、有松・鳴海絞会館、桶狭間古戦場、高徳院、阿野一里塚、洞隣寺、総持寺、知立神社、知立城跡などの史跡や見どころがあります。



 鳴海宿を出て、程なく有松・鳴海絞会館が有り、絞作業の見学や展示販売されているそうです。その周辺は重要伝統建造物群保存地区になっており、岡家住宅他、有松の街並みを視ることが出来るようです。
 絞会館から少し行くと、桶狭間古戦場です。勿論、織田信長が兵力2万5千の今川軍を三千の兵で破った桶狭間の戦いの舞台になった場所です。現在は公園になっていて、今川義元の墓なども有ります。
 古戦場の近くにある、高徳院は高野山真言宗のお寺です。今川義元は桶狭間の戦いの為に本陣をここに置いたと言う事です。古戦場、高徳院共に今川義元に纏わる史跡が多く有ります。又、近くには中京競馬場が有り、競馬開催日と重なった場合はそちらで1発勝負?
 古戦場の先に阿野一里塚が有り、江戸から86番目の一里塚です。街道の両脇に現存する一里塚は国の指定史跡だという事です。この一里塚を離れ境川を渡ると、尾張国から三河国に入ります。



 三河国に入り少し行くと、洞隣寺です。曹洞宗のお寺で開基は徳川家康の叔父で刈谷城主の水野忠重と言う事です。刈谷城は西へ数キロ離れた所で亀城公園として整備されています。
 洞隣寺から少し行き、逢妻川を渡ります。すぐに総持寺と知立神社が有ります。
 総持寺は、天台宗のお寺で、家康の側室於万の方生誕の地とされています。知立神社の境内に総持寺が有る様な感じです。
 知立神社は三河国二宮で江戸時代には東海道三社の一つに数えられたそうです。境内には多宝塔がありますが、これは12月に紹介した柏原八幡神社の三重塔と同じように塔から本尊を省き文庫にすることにより、神仏分離令から逃れた様です。本尊は総持寺に有るとの事です。
 総持寺の数百メートル先には、知立城跡が有ります。知立城は知立神社の神主の築城とされており、その居館が城の始まりとされているそうです。現在は公園になっていて石碑と案内板があるだけと言う事です。



 知立城跡を過ぎた辺りが、池鯉鮒宿の入り口と言う事です。
 池鯉鮒宿は、江戸から39番目、京都からは15番目の宿場です。池鯉鮒は歴史的仮名遣いで(ちりふ)と読まれます。中世には鎌倉街道の要衝として江戸時代は東海道の宿場町として栄えた所です。池鯉鮒の地名は、近くに鯉や鮒の多く住む池があった事ではないか?と言う事です。
 宿場内には、池鯉鮒宿本陣跡、問屋場跡、慈眼寺の史跡があります。本陣跡、問屋場跡は跡碑のみとなっています。
 慈眼寺は、福聚山慈眼寺と言い阿弥陀如来を本尊とする曹洞宗のお寺です。お寺の東側は馬の集積地で馬市も開かれていたそうで、馬の供養の為馬頭観音が祀られたという事です。
 鳴海宿から池鯉鮒宿間のルートプランは有松・鳴海絞会館―桶狭間古戦場―高徳院―阿野一里塚―洞隣寺―総持寺―知立神社―知立城跡と言った計画になります。
 宿場内の計画は、本陣跡―問屋場跡―慈眼寺となります。



 さて、池鯉鮒宿での美味しいものは、いもかわうどんと言うのが有ります。平打ちのうどんできしめんのルーツとも言われている物です。明治時代に途絶えていましたが、2007年に復活したそうです。鳴海宿から池鯉鮒宿の間で食べなければいけない物だと思います。
 次回は岡崎宿へと妄想の旅をします。距離は約三里三十丁(15.3Km)となります。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 宮宿~鳴海宿)



 宮宿から鳴海宿に向かいます。距離にして約一里半(7.3Km)の道のりです。



 鳴海宿の京都側の入り口、丹下町常夜燈迄の間には、熊野三社、笠寺観音、笠寺一里塚、千句塚公園、千鳥塚、などの史跡があります。



 熊野三社は勿論、熊野三山を総本山とする神社です。永禄年間に山崎城城主佐久間信盛が守護神とする1627年氏神としてこの地に移されました。この神社は、熊野三社松巨島(くまのさんしゃまつこじま)とも呼ばれています、熱田の方から見るとこの辺りが松の大きな島に見えた事から来ているそうです。山崎城は、神社の手前にある安泰寺の境内がお城だったと言う事ですが案内板などは内容です。
 笠寺観音は本来天林山笠覆寺と言います。十一面観音を本尊とする真言宗智山派のお寺で尾張四観音の一つです。尾張四観音とは尾張国の代表的な四つの観音寺で、笠覆寺他に荒子観音、甚目次観音、龍泉寺観音があり、いずれも開基から1000年以上のお寺との事です。笠寺観音の先には、笠寺一里塚があり名古屋市内で現存する唯一の一里塚です。
 千句塚公園は松尾芭蕉が自ら築いた句碑が有る公園です。句碑には「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」とあります。千鳥塚も公園内にあり、他に稲荷神社も有ります。またデートスポットとしても知られており名古屋港などの夜景が楽しめるそうです。
 千句塚公園から少し行くと、丹下町常夜燈に差し掛かります。此処が、西の入り口になります。その手前には、成海神社が有ります、日本武尊を主祭神とする神社です。



 鳴海宿は、江戸から40番目、京都からは14番目の宿場です。成海宿とも呼ばれ、昔は海に面した宿場でしたが土砂の堆積で海から離れています。江戸時代から始まった鳴海絞は、今も伝統産業として続いています。
 その鳴海宿には、丹下町常夜燈、成海神社、鳴海城址、鳴海宿本陣跡、瑞泉寺、平部町常夜燈、宿場から少し離れますが大高城址などが有ります。
 鳴海城は、別名根古屋城とも言われ、室町時代に安原宗範の地区と言う事です。しかし宗範没後1次は廃城になりました。しかし、戦国時代今川軍の武将が桶狭間の戦いで織田信長軍と戦い城は信長の手に渡り、天正年間廃城となりました。現在は公園になっていますが、向の神社に城跡碑と説明看板が有るだけだそうです。
 近くには鳴海宿本陣跡があります。江戸時代「鳴海の本陣はここにあり」と言われたようで、かなりの規模だった様です。予備の脇本陣も二軒有ったそうです。
 瑞泉寺は、鳴海城主安原宗範の創建で大徹禅師を開山とする曹洞宗のお寺です。鳴海宿は寺町でもあり「鳴海寺詣り歌」と言う宿場の寺社を歌ったわらべ歌が有ります。歌の歌詞をなぞって、お寺参りと言うのも良いかも知れません。
 平部町常夜燈は東の入り口にあたります。1806年に設置された常夜燈は大きく華麗で道中有数のものです。
 大高城址は宿場から西へ2Km程離れた所にあります。桶狭間ので、松平元康(徳川家光)が兵糧入れをした城と言われています。江戸時代に廃城となりましたが、尾張藩は東の押さえとして万石級の家老を領主としました。



 宮宿~鳴海宿のルートプランが熊野三社―笠寺観音―笠寺一里塚―千句塚公園―丹下町常夜燈となりました。どのくらい、周れるかわかりませんが、東海道を旅している証になる画像を撮れればいいと思います。
 宿場内は、丹下町常夜燈―成海神社―鳴海城址―鳴海宿本陣跡―瑞泉寺―平部町常夜燈―大高城址と言う計画です。
 さて、鳴海宿での美味しいものは?やはり、鳴海宿で食べなければいけない物と言うのは有りませんでした。名古屋市内ですので、名古屋飯として一括りにされてしまうのでしょうね。
 この後は、知立宿(地鯉鮒宿)二里三十丁(12.2Km)への妄想を膨らませます。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 桑名宿~宮宿)



 2月13日のちちんぷいぷい、昔の人は偉かったでは日坂宿から掛川宿を歩いていました。お寺の名前は忘れたのですが、日本一大きな獅子舞が有るそうです。



 桑名宿から宮宿を目指します。七里の渡しでは七里と言う事ですが、陸路でも20Km程は有りそうです。



 桑名宿から宮宿へは、佐屋街道と言う別ルートも有ったようです。その間には佐屋宿、神守宿、万場宿、岩塚宿と四つの宿場が存在していました。その、佐屋宿と桑名宿の間にも三里の渡しが有りました。
 七里の渡しが一旦海に出て、宮宿へ行くのに対し、三里の渡しは川を行きかっていました。陸路と合わせると九里にもなり船賃も七里の渡しの倍以上でしたが、女人や子供には迂廻路として利用されていました。桑名宿側の船着き場はしてと同じ処の様で、佐屋宿側は、愛知県津島市にある様です。



 桑名宿と宮宿を結ぶ佐屋街道ですが、史跡や見どころも沢山有ります。
 佐屋宿では、水鶏塚1735年建立された芭蕉の句碑、浄法寺、代官所跡、などが有ります。
 隣の神守宿は佐屋街道で唯一現存する一里塚があり、他にも本陣跡、神守代官所跡が・・・。
 万場宿で、覚王院、国玉神社、秋葉社、光円寺など。
 岩塚宿では、八幡神社には本陣がこの辺りに在ったとされます。遍慶寺は岩塚城の城址石碑があり、七所社は日本武尊が腰掛けたという岩や、岩塚の由来となった古墳も有ります。七所社の道標は高札場が有ったところです。
 宮宿に行くには、陸路で向かうのですが佐屋街道がどのルートか?は又調べなければなりません。現段階では桑名宿から国道1号に出て宮宿に向かう事になります。



 宮宿は江戸から41番目の宿場で、中山道に繋がる美濃路や佐屋街道の分岐点で、東海道最大の宿場町です。同時に、熱田神宮の門前町でもあり、幕府や尾張藩の文書では宮宿ではなく、熱田宿と記されているそうです。
 宮宿の史跡や見どころとしては、当然宮宿側の七里の渡し跡です。現在公園として整備され、熱田湊常夜燈や時の鐘があります。また、桑名宿と宮宿を結ぶ七里の渡しですが、宮宿から四日市宿へ行く十里の渡しと言うものも有ったそうです。
 他には、都々逸発祥の裁断橋、東海道と美濃路の文書にあるほうろく地蔵、脇本陣格の旅籠丹羽家住宅、ひつまぶしの老舗蓬莱軒などが有ります。
 当然熱田神宮もお参りしないといけません。熱田神宮は尾張国三宮で神社本庁の別表神社に定められています。主祭神は熱田大神で神紋は五七桐竹紋です。



 さて、宮宿で美味しいものは?調べましたが、どうしても名古屋市の美味しいものとして一括りにされています。やはりここはひつまぶしとなるでしょう。蓬莱軒にこだわらずに探してみるのも良いでしょう。
 次は鳴海宿への妄想をします。鳴海宿へは約一里半(7.3Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 四日市宿~桑名宿)



 四日市宿から桑名宿を目指します。三里八丁(14.5Km)の道のりです。



 四日市宿からから間もなく、三ツ谷の一里塚に差し掛かり、それを過ぎて暫く行くと力石があり、近くには羽津城跡があります。羽津城は15世紀後半、田原(藤原)盛宗により築城されました。盛宗はムカデ退治で有名な藤原秀郷の子孫だそうです。
 力石の先には富田の一里塚があります。江戸日本橋から98番目の一里塚です。この辺りは富田の立場だった所で賑っていたそうです。近くの、冨田駅の東側に冨田城が有ったそうですが、今は富田幼稚園に名残として銀杏の古木が残っているそうです
 富田の一里塚から暫く行けば、幕末の国学者橘守部の誕生地の遺跡があります。そこから少し行けば、伊勢朝日町駅の側に縄生の一里塚があり、近くには資料館なども有るそうです。
 朝日町駅からさらに進むと、町屋川に差し掛かり川を渡ると、伊勢両宮常夜燈があります。文政年間桑名や岐阜の材木商たちが寄進したものと言う事です。この辺りは舟遊びの船着き場もあり賑っていたそうです。



 少し行くと、矢田立場に突き当たりますが、途中の道は江場松原と言い松並木が続いていたらしいです。火の見櫓が復元されている矢田立場は旅人の休憩所として賑っていました。この辺りは戦災を免れたと言う事で昔ながらの家並みが見ることが出来るそうです。この辺りから街道は曲がり角が多くなりそうです。
 そのまま、進むと吉津屋見附跡があります。曲がり角が多い事から七曲の見附跡と言われているようです。吉津見附が京都からの入り口なのでしょうか?



 四日市宿と桑名宿間には他にも多くの神社仏閣、名所旧跡、史跡が点在しています。特に浄泉坊と言う浄土真宗本願寺派のお寺は、徳川家に縁のある、桑名藩主の正室の菩提寺だったこともあり参勤交代の折、大名たちはかごを降り黙礼したと言う事です。他にも、桑名市博物館や、安永餅店跡などがあります。
 桑名宿は江戸から42番目の宿場町で、宮宿に渡る七里の渡しを控えて大きく賑った宿です。同時に松平家の城下町でもあり、桑名城は、九華公園になっています。
 桑名宿内にも史跡や見どころが、七里の渡し跡は勿論、大塚本陣跡(船津屋)、脇本陣跡(駿河屋)、通り井跡、柿安本店、桑名宗社(春日神社)、海蔵寺(薩摩義士墓所)、佛眼院(喚鐘、桑名藩藩士墓所)他神社仏閣なども数多く有ります。



 さて、桑名宿で美味しいものと言えば、「その手は桑名の焼き蛤」?の蛤ですよね。色んな店で提供しているようです。店先でも販売している処もあり立ち食いも可能な様です。柿安本店は文明開化初期に開業した牛鍋屋由来の老舗の食品メーカーで外食事業でも老舗のお店です。他には、安永餅があります、これは四日市宿笹井屋のなが餅と同じもので、呼び名が違うだけの様です。只、四日市宿と桑名宿の間でしか食べられない感じがします。
 次は、宮宿に向かいます。約七里と言う事ですが、陸上を移動する場合でも20Kmほどはあるようです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 石薬師宿~四日市宿)



 2月6日のちちんぷいぷい、昔の人は偉かったは金屋宿から日坂宿を歩いていたそうですが、番組を視ることが出来ませんでした。



 今回は、石薬師宿から四日市宿を目指す妄想の旅です。石薬師宿と四日市宿間は約二里二七丁(11.2Km)の道のりです。



 石薬師宿を出て暫く行くと、杖衝坂に差し掛かります。日本武尊が剣を杖にして登ったといわれる坂です。側には芭蕉の句碑が有るそうで、この坂で落馬した時に読んだ季語の無い句だそうです「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」と読まれています。坂の手前には、日本武尊御血塚社があり、三重県の県名の由来となる言葉を残したといわれています。
 少し行くと、内部川には東海道にちなんだポケットパークが有るらしいです。
 内部川を渡り暫く行くと、日永の追分に着きます。随分、伊勢街道との分岐点と言う言葉が出て来ましたが、ここで本当に分岐するのだろうと思います。周辺には伊勢神宮遥拝鳥居や常夜燈もあり、更に追分鳥居の水と言う湧水があるそうで、水質検査もクリアーしているそうです。少し行くと、日永神社が有ります。追分と神社の間には、東海道名残の一本松や日永の一里塚の碑などが有ります。日永の一里塚は江戸日本橋から丁度百里目の一里塚と言う事です。日永の追分辺りには、松並木が続いていたそうです。
 日永神社から少し進むと、古い町並みが残っており、その中には、嘉永年間に建てられた鈴木薬局も有ります。鈴木薬局は300年近く続く旧家で、4代目が長崎で漢方を伝授されたそうです。現在は、製造されていないそうですがいろんな薬が作られていました。



 更に進むと、戦後活躍した小説家丹羽文雄の生家があります。奥には崇顕寺と言うお寺があり丹羽文雄は其処の長男として生まれました。
 丹羽文雄生家から少し行くと、諏訪神社が有ります。どうやらこの辺りから四日市宿の様です。



 四日市宿は四の付く日に市が立っていた事からその名が付いたそうです。古くから港町、宿場町として発展し、東海道、伊勢参りの旅人が集まっていました。宿場内には歌川広重が描いた三滝川、なが餅を販売している笹井屋、東海道四日市資料館、諏訪神社などの史跡や見どころがあります。三滝川の上流には湯の山温泉が有るそうです。
 さて、四日市宿の美味しいものを探してみました。四日市宿でなくても食べる事の出来るものも有りますが、四日市宿でないといけない物がトンテキ丼、店によって違いはありますが豚肩ロースをニンニクと濃いめのソースで焼いた物の丼です。もう一つやはり笹井屋のなが餅は、餡を包み細長く薄く炙ったもので、日永の地名にちなんで永餅と名付けられたそうです。
 次は四日市宿から桑名宿を妄想で旅します。距離は約三里八丁(14.5Km)の旅です。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 庄野宿~石薬師宿)



 庄野宿から石薬師宿を目指します。距離にして一里(3.9km)も無い道のりです。



 庄野宿から国道1号に出て暫く進むと再び東海道に入ります。程なく、石薬師の一里塚があります。江戸日本橋から数えると102番目の1里塚です。此処が石薬師宿の入り口となるらしいです。
 少し行って、街道から逸れると、石薬師寺の蒲桜があり、ヤマザクラの一種と言う事です。石薬師寺自体は少し離れた所にあります。
 石薬師寺は、真言宗東寺派のお寺で、元は高富山西福寺瑠璃光院と称されていたそうですが、江戸時代に高富山瑠璃光院石薬師寺となったらしいです。本尊は薬師如来です。



 蒲桜と石薬師寺の間に、蒲冠者範頼之社と言う源頼朝の弟、源範頼を祀った神社が有ります。願望成就の神様として祀られている様です。
 石薬師寺から少し行くと、佐佐木信綱記念館があり、側には生家もあります。佐佐木信綱は武将の佐々木信綱、音楽家の佐々木信綱、歌人の佐佐木信綱といますが、石薬師宿では、歌人佐佐木信綱を言います。有名なのは、唱歌「夏は来ぬ」の歌詞を書いた歌人として知られています。
 佐佐木信綱記念館から直ぐに、小澤本陣跡に差し掛かります。これは、小沢家が勤めたため小澤本陣と呼ばれているようです。建物は、明治時代に建て替えられ現在は資料館となっています。
 資料館館から少し行くと、北町の地蔵堂があります。どうやら、此処が石薬師宿の江戸側の入り口の様です。
 石薬師宿は、宿場町と同時に、石薬師寺の門前町として栄えましたが、関宿と四日市宿に挟まれた場所で宿場としては、大きくなりませんでしたが、門前町としては賑っていたそうです。



 さて、石薬師宿の美味しいものですが、庄野宿同様これと言ったものはありませんでした。美味しそうなお店はあるようですが、石薬師宿でなければ頂けない様なものではなさそうです。
 次は、四日市宿、三里八丁(11.2km)を目指します。