オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 島田宿~藤枝宿)



 島田宿から藤枝宿二里八丁(約10.6Km)を目指します。



 藤枝宿の、西の入り口は、瀬戸川に架かる勝草橋辺りが入り口の様です。
 島田宿と藤枝宿の間には、栃山橋、上青島一里塚、染飯茶屋蹟碑、千貫堤、東海道追分、六地蔵堂、田中藩領傍示石、志田一里塚、などの史跡が有ります。



 島田宿を出て、少しすると、栃山橋を渡ります。此処から藤枝市に入ります。旧道の松並木を進んで行くと、上青島一里塚に差し掛かります。江戸から51番目の一里塚ですが碑のみとなっています。
 一里塚の先には、染飯茶屋蹟が有ります。染飯というのは、くちなしで黄色く染めたおこわで、瀬戸(藤枝)の名物として旅人に提供されていたそうです。現在染飯を頂く事は出来るのでしょうか?
 染飯茶屋の側には千貫堤が有り、寛永年間大井川の氾濫から守るための大堤防です。その費用が千貫だったという事で、その名が付いたという事です。
 千貫堤の先は、東海道追分です。大井川の氾濫はこの辺り迄被害が及んでいた様で、古東海道は北側の尾根伝いに来ていた様です。
 追分を過ぎると、六地蔵堂があります。六地蔵堂がある鏡が池に龍が住んでおり旅人を悩ませていたのを鬼岩寺二世静照上人により退治され、鏡池堂が立てられ六地蔵が祀られたという事です。
 六地蔵堂から少し進むと田中藩領傍示石に差し掛かります。染飯茶屋の手前にも田中藩領傍示石が有り、この辺りは田中藩領と掛川藩領が入り組む地域で、藩鏡に境界を示す傍石が建てられたという事です。
 田中藩領傍示石を過ぎて進むと、志田一里塚です、すぐそばに、勝草橋が架かっています。勝草橋を渡ると藤枝宿です。



 江戸から22番目の宿場である藤枝宿は、城下町としても、塩の産地であった田沼街道分岐点としても、更に商業地としても栄えた宿場です。又、藤枝ダルマや桐ダンスなどの伝統工芸も有名との事です。
 藤枝宿には、正定寺、問屋場跡、上本陣、下本陣、大慶寺、蓮生寺、白子由来記、東海道藤枝宿左車町、田中城、などが有ります。



 勝草橋を渡ると、正定寺が有ります。境内には、享保年間、当時の田中城城主が、報恩謝徳として寄進したという「本願の松」が植えられています。傘型の姿が特徴的で延命の松とも言われているそうで、市の天然記念物との事です。
 正定寺を過ぎると問屋場跡、上本陣、下本陣が続きますが、碑ではなく歩道にタイルが埋め込まれているそうです。
 その先を行くと大慶寺に差し掛かります。大慶寺は日蓮宗の寺院で山号は延妙山大慶寺となります。建長年間比叡山に遊学していた日蓮聖人が藤枝に立ち寄った時、若き日蓮の説法に教化された夫婦が持仏堂として建立した法華堂が起源だそうで、その後田中城の祈願所となり栄えたとの事です。境内には、当時の日蓮聖人が自ら植えたと伝わる黒松が有り県の天然記念物だそうです。
 大慶寺の先は蓮生寺です。蓮生寺は浄土真宗大谷派の寺院で熊谷山蓮生寺と言い建久年間蓮正(熊谷直実)開山となり創建されたという言い伝えです。享保年間駿河国田中藩主となった本多氏の菩提寺となったそうです。境内には、市指定の天然記念物イブキが植えられているとの事です。
 蓮生寺の近くに、白木由来記の碑が有るとの事です。本能寺の変の時、徳川家康を助けた伊勢国白子の小川孫三が家康の恩賞を受けこの地に移り住んだという事です。
 その先に東海道藤枝宿左車町が有ります。鎌倉6代将軍源宗尊が京から鎌倉に下る時乗っていた車の左車輪が折れてここに埋めた事から着いた地名だそうです。江戸時代はこの辺りが東木戸だった様で東の入り口と言う事です。
 そこから街道を1Km程南下すると、田中城に着きます。田中城の歴代城主の殆どが幕閣入りを果たしており、田中藩主、城主になる事は幕政に参加する登竜門であった様で、天文年間今川氏により築城され、天正年間徳川の攻撃により開城し慶長年間徳川の酒井忠利が入城したとの事です。城は、平城で天守閣は無かった様です。現在周辺は田中城下屋敷として整備されています。



 さて、藤枝宿で頂かなければいけない物は?と言うと、当然、朝ラーですね!ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)や、所さんお届けモノです!でも紹介されています。元は茶業関係者の食文化で、収穫や取引が早朝から行われるため早朝から来客が多く有るため朝ラーの文化が始まったそうです。本来の中華そばの温と、甘めのスープにわさび・生姜を添えられた冷の2種類を1セットで頂くものです。もう一つ気になっているのが、染飯ですが、こちらは藤枝駅前のお弁当屋さんで販売されているとの事です。
 この後、岡部宿へ一里二十九丁(約5.5Km)の道のりを行きます。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 金谷宿~島田宿)



 金谷宿から大井川を越えて島田宿へ入ります。1里(約4.5Km)の道のりです。



 島田宿、西の入り口ですが、川越遺跡町並が始まる川会所辺りかと思われます。
 金谷宿と島田宿の間には、大井橋、朝顔の松公園、川会所、が有ります。



 金谷宿を出て、大井川沿いを少し進むと、大井橋を渡ることになります。「箱根八里は馬でも越すが越すにこされぬ大井川」と歌われた川で東海道最大の難所です。江戸時代防衛上の理由で橋を架けるのを許さなかったそうです。
 大井川を越えると、駿河国に入ります。橋を渡り街道に戻るため、県道342に入ります。
 街道に戻ると、朝顔の松公園が有ります。浄瑠璃や歌舞伎伝説の松が生えているとの事で、公園に整備されている様です。朝顔の松の由来などは、いろんなサイトで紹介されています。向かいには、島田市博物館もあり、大井川や島田宿の様子が展示されているそうです。
 その先に川会所が復元されています。この建物は安政年間に建てられたもので、明治以降に一時移転されましたが、その後元の位置に復元されたとの事です。川越業務の管理運営を行っていた処で、国の指定史跡だそうです。



 いよいよ島田宿です。江戸から23番目の宿場で、大井川の左岸に有るため、右岸に有る金谷宿同様、大井川の増水で川越が禁止されると大そうな賑わいを見せたという事です。
 その島田宿には、川越遺跡町並み、関川庵、大井神社、問屋場跡、刀匠顕彰碑、島田一里塚、



 川会から川越遺跡町並に入ります。遺跡は1970年に復元されたものです。普通の民家と混同している様ですが昔の雰囲気が現れているそうです。
 途中、関川庵の標柱が有り街道を逸れると、浄瑠璃や歌舞伎で有名な「八百屋お七」の、お七の恋人の墓が有るそうです。
 関川庵から暫く行くと、大井神社鳥居が有り、その奥は大井神社です。創建不詳ですが貞観年間には存在していた様です。祭神は彌都波能売神、波邇夜須比売神、天照大神という事で、安産や女性、子供の神様として信仰されているそうで、神社の帯祭りは日本三大奇祭の一つとの事です。
 大井神社の先には問屋場跡と刀匠顕彰碑が有ります。共に碑だけですがこの辺りは室町時代から多くの刀工が軒を連ね今川、武田、徳川氏から評価されていたとの事です。
 問屋場跡を過ぎると、島田一里塚です碑のみですが、先には島田宿の道標が有りこの辺りが江戸からの入り口になる様です。



 島田宿の美味しい物ですが、和菓子になります。小饅頭というお饅頭で皮に特徴があるそうです。米麴を使った皮でお酒に似た香りでふっくらしているそうです。臭いはお酒でも、アルコールは無くなっているそうです。
 この後、藤枝宿2里八丁(約10.6Km)を目指します。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 舞阪宿~浜松宿)



 3月29日の「所さんお届けモノです!」では、チャンカワイさんが金谷宿、島田宿、藤枝宿、岡部宿、鞠子宿歩いて、東海道の創業100年以上の老舗の新名物を紹介していました。昔の人はエライ!も、もう少しで追いつけそうです。



 舞阪宿から浜松宿へ向かいます。二里三十丁(約12.1Km)の道のりです。
 丁度、MBSの、ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)では、浜松宿・舞阪宿の辺りを歩いています。という事は・・・、妄想ではどこかで、出会った事になります。



 浜松宿、西の入り口はハッキリしません。鎧橋辺りから浜松宿と言う感じでしょうか?
 舞阪宿と浜松宿の間には、浪小僧像、舞阪松並木、春日神社、秋葉常夜燈、篠原一里塚、立場本陣跡、高札場跡、二つ御堂、若林一里塚、などの史跡が有ります。



 舞阪見付石垣を出発して、国道301号との交差点辺りに浪小僧像が有ります。海が荒れたり、風が強くなる時に海の中から太鼓で知らせてくれるそうです。
 浪小僧像を過ぎると、舞阪の松並木が続いていきます。江戸時代街道に松や杉を植えさせたのが始まりとされます。此処の松並木は正徳年間1420本の松が植えられたそうです。現在は、700mに渡り、370本の松が植わっているそうです。松並木の中ほどには、舞阪宿の碑が置かれています。ここで、舞阪宿を離れることになります。
 松並木が終わった、辺りに春日神社が有ります。奈良の春日神社から勧請されたものだそうです。進んでいくと、秋葉常夜燈が点在しています。
 暫く行くと、篠原一里塚の看板が設置されています。近くには立木本陣跡がありますが、看板だけの様です。その先に高札場跡の標識があります。その手前に麦飯長者の標識も有り、昔小野田五郎兵衛と言う長者が旅人に麦飯を振舞った事から麦飯長者と呼ばれたという言い伝えらしいです。



 高札場跡から少し進むと、二つ御堂で、北堂と南堂が有ります。奥州平泉の藤原秀衡が京で大病を患っていると聞いた愛妾が京へ上る途中、この地で秀衡死去の知らせを聞き菩提を弔うため北堂を建立しましたが、秀衡死去は誤報で、病が回復し帰国途中の秀衡はこの話を聞いて南堂を建立したという話だそうです。
 二つ御堂を過ぎると、八丁畷が始まります。八丁畷は真っ直ぐな道が八丁続く事から言われています。
 八丁畷に入ると直ぐに若林一里塚の碑が有ります。その先、鎧橋に差し掛かります。この辺りが浜松宿西の入り口でしょうか?
 浜松宿は、江戸から29番目、京から25番目の宿場ですが距離的には、江戸と京の丁度中間点にあたるとの事です。又、浜松城の城下町としても栄え、遠江国、駿河国を通じて最大の宿場でした。
 浜松宿の宿場内には、鎧橋、子育て地蔵尊、番所跡、梅屋本陣、川口本陣、杉浦本陣、佐藤本陣、高札場跡、大手門跡、浜松城、などの史跡が有ります。



 浜松宿西の入り口では?と思う鎧橋は、平安時代末期比叡山の雑兵に鴨江寺を攻められた時、寺の軍兵が鎧を着てこの橋で守ったという処から鎧橋と言われるようになったそうです。
 鎧橋の先、八丁畷が終わった所には、子育て地蔵尊が有ります。数体の石仏が並んで祀られているそうです。
 子育て地蔵尊を過ぎた先に、番所跡、梅屋本陣、川口本陣、杉浦本陣、佐藤本陣、高札場跡が続けて現れます。何れも碑か看板のみとなっています。この辺りは浜松宿本陣通りと呼ばれている処です。
 本陣通りを抜けた所の交差点に、大手門跡の碑が立っています。交差点を右に行くと街道、直進すると浜松城となります。浜松城は15世紀の築城時は曳馬城と呼ばれていました。1570年徳川家康が入城し浜松城に改名したとの事です。その後、歴代城主の多くが幕府の重役に就き出世城とも呼ばれたそうです。城址は戦後、浜松城公園として整備され、1958年天守が再建されました。
 交差点に戻り、街道を暫く行くと、馬込橋です。此処が東の入り口と言う事になります。



 さて、浜宿の美味しい物は、鰻ばかりに頭が行っていましたが、浜松餃子が有りました。他には遠州焼と言う粉もんがあるそうです。丁度関西で言う葱焼に沢庵が入った物の様な感じらしいです。
 次は、浜松宿から見付宿を目指します。距離にして四里七丁(約14.7Km)となります。