オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 新居宿~舞阪宿)



 新居宿から舞阪宿へ向かいます。江戸時代は、渡し船で一里の距離でしたが、現在は、陸路で約6.6Kmの道のりになります。



 舞阪宿の、西の入り口は北雁木常夜燈辺りかとおもわれます。
 新居宿と舞阪宿の間には、西浜名橋、中浜名橋、弁天神社、が有ります。



 西浜名橋、中浜名橋、弁天橋は浜名湖を渡る橋です。浜名湖は元々、淡水湖で、新居と舞阪も陸続きで、海面より湖面が高く海水が流れ込むことは有りませんでした。しかし、明応地震の地盤沈下で、海水が流れ込むようになり、宝永地震の津波などで、湖と海を隔てていた陸地が決壊し汽水湖となりました。決壊した場所を今切と呼ばれるようになったとの事です。江戸時代以前は渡し船で、渡っており今切の渡しと言われていました。現在は三つの橋によって陸路で行き来出来るようになっています。
 新居宿を出て、国道203号をしばらく進むと西浜名橋、を渡ることになります。西浜名橋から少し進み中浜名橋を渡ると弁天神社に差し掛かります。
 弁天島にある弁天神社ですが、昔弁天島は砂洲が続き天橋立の様な景色だったそうで、その美しさに誘われ天女が舞い降りたという天女伝説が残っている処です。橋立の丹後地方にも天女伝説が有りますが、丹後地方の話が元になっているのでしょうか?宝永地震の跡ここに弁天神社が建立されたとの事です。境内には正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑も有ります。弁天神社の先には弁天橋が有り、渡ると間もなく、舞阪宿に入ります。
 舞阪宿は、江戸から30番目の宿場で、今切の渡しが控える宿場と言う事から新居宿同様、重要視されていました。



 舞阪宿の中には、北雁木跡、本雁木跡、南雁木跡、西町常夜燈、旧脇本陣茗荷屋、舞阪本陣跡、仲町常夜燈、舞阪一里塚、新町秋葉常夜燈、見附石垣など、沢山の史跡が有ります。



 弁天橋を渡り間もなく、北雁木跡があります。雁木(がんぎ、地元ではがんげ)とは階段状の船着き場を言うそうです。北雁木では、大名や幕府公用役人が使っていました。近くには北雁木常夜燈も有ります。復元されているのは、この北雁木だけとの事です。
 北雁木の先に、本雁木跡と本雁木常夜燈が有ります。本雁木では、一般の武家や庶民が使用していたという事です。
 街道を離れ南に行くと、南雁木です、ここは荷物用ですが庶民も利用していた様です。
 街道に戻ると西町常夜燈に差し掛かります。この常夜燈は文化年間舞阪宿に大火事が有り、その復興を願って建てられたものだそうです。
 その先に、旧脇本陣茗荷屋がります。脇本陣茗荷屋の建物は天保年間に建てられたものを修復・復元したもので、現在一般公開されているそうです。その向かいには本陣跡の碑が立っています。
 脇本陣、本陣、を過ぎて少し行くと仲町常夜燈が、その先にも新町秋葉常夜燈が有ります。舞阪宿には結構常夜燈があります、文化年間の大火事で火防せ、や秋葉信仰が高まり常夜燈が設けられたという事です。秋葉常夜燈の側には舞阪一里塚とその碑もあります。
 秋葉常夜燈を過ぎると見付石垣に差し掛かります。どうやら、此処が東の入り口の様です。



 さて、舞阪宿で頂かなければならない物は?やはり、鰻となりますが、舞阪は漁師街でもあります。冬の牡蠣や、秋の真鯛、活きた車海老をそのまま揚げた「活き車海老天丼」などがおすすめだそうです。



 この先は、浜松宿になります。道のりは二里三十丁(約12.1Km)になります。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 白須賀宿~新居宿)



 新居宿を目指す旅です。距離は一里二十四丁(約4.8Km)となっています。



 新居宿の、西の入り口は棒鼻跡の辺りの様です。白須賀宿と新居宿の間には明治天皇御野立所阯、立場跡、浜名の松並木、紅葉寺、橋本宿跡、風炉の井などの史跡が有ります。



 白須賀宿を出て暫く行く明治天皇御野立所阯が有ります。明治元年東京へ行幸した明治天皇が休憩した所だそうです。柵に囲まれて石碑が有るとの事です。その先に立場跡が有り碑だけが建っている様です。
 立場を過ぎると直ぐに、浜名の松並木が続いています。松並木の途中には、「藤原為家と阿仏尼の歌碑」も建っています。
 松並木が終わった辺りに紅葉寺が有ります。室町六代将軍足利義教がこの寺で紅葉を観た事から紅葉寺と言うそうです。現在寺は、参道だけが残っているそうです。
 紅葉寺から少し行くと、橋本宿になります。民家の前に碑が有り、辺りは街並みが残っているとの事です。橋本宿は新居宿の加宿でした。
 橋本宿から少し行くと、風炉の井です。源頼朝が上洛の際、この井戸水を茶の湯に使ったと言われています。その先は棒鼻跡、新居宿になります。



 江戸から31番目の宿場、新居宿です。平安から中世までは橋本宿が繁栄していたとの事ですが、室町時代の明応地震とその津波で壊滅、新居地区に移転し新居宿となりました。その後も、元禄年間に高潮と津波、宝永年間には宝永地震とその津波に見舞われています。
 新居宿には、棒鼻跡、新居一里塚、寄馬跡、本陣跡、紀伊国屋、新居関、渡船場と史跡が有ります。



 棒鼻跡の棒鼻は駕籠の棒先の事で、大名行列が宿場に入るとき棒先で先頭を整えた場所と言われていますが、実際には道の両側から土塁が出て道幅が狭く一度に大人数が通れない様にしたものらしいです。碑のみが立っているそうです。棒鼻跡の近くに新居一里塚の碑が立っています。
 少し行くと、寄馬跡と本陣跡に差し掛かります。碑があるだけなのですが本陣は三軒有り、疋田八郎兵衛本陣跡、飯田武平衛本陣跡、疋田弥五郎本陣跡とそれぞれの碑が立っているそうです。
 本陣跡を過ぎると、旅籠紀伊国屋が有ります。徳川御三家、紀州藩の御用宿を務めた事から紀伊国屋の屋号を掲げる事を許されたとの事です。現在は資料館になっています。
 その先に、新居関と渡船場が有ります。新居関は家康が新居の元屋敷に創設したのが始まりらしいのですが度重なる災害で、移転が繰り返され、元禄年間に現在の場所に置かれたそうです。創設当初は、今切関所と呼ばれていたとの事です。現在関所は修復され資料館として公開されています。
 江戸時代、新居宿・舞阪宿間は船で行き来していたようで、その渡船場が関所の前に復元されて有るという事です。



 新居宿で美味しいものは、浜名湖畔にある新居宿ですから鰻が先ず思い浮かびますが、どうも湖西市は和菓子が有名な様です。一つが「すわま(すあま)」で、上新粉に砂糖と湯を練り合わせ軽く搗き餅状にした和菓子で、桃の節句の頃新居で売られるそうです。もう一つ、「はまぐり」と言う栗が丸ごと一つ入ったどら焼きが有名だそうです。
 新井宿の次は舞阪宿に向かいます。一里(約6.6Km)の距離ですが一里と言うのは海上での距離だそうです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 二川宿~白須賀宿)



 二川宿から白須賀宿を目指します。距離にして二里十六町(約8.1Km)の道のりです。



 県境を越えると、間もなく白須賀宿西の入り口にあたる高札場立場跡です。二川宿と白須賀宿の間の史跡は細谷一里塚があるだけです。



 細谷一里塚は、二川宿を出て暫く行かなければなりません。豊橋には、4つの一里塚が有り細谷一里塚だけが現存する一里塚との事です。地元では一里山一里塚と言うそうです。この一里塚の手前で、冬場の天気の良い日には富士山を観ることが出来るらしいです。
 細谷一里塚から少し行くと、いよいよ静岡県遠江国に入ります。間もなく、白須賀宿です。
 白須賀宿は江戸から32番目の宿場で、県境を越えた辺りは境宿と呼ばれたようで柏餅が有名で白須賀名物だったらしいです。
 この宿場は、1707年宝永地震とその津波で大きな被害を受け、現在の位置に移りました。



 白須賀宿には、高札場立場跡、庚申堂、火防樹、脇本陣跡、本陣跡、曲尺手、潮見坂公園、おんやど白須賀、潮見坂、蔵法寺、高札場跡などの史跡が有ります。境宿も白須賀宿の1部になります。
 高札場立場跡は碑だけが立っている様です。庚申堂は1681年建立されましたが、現在のものは1841年再建されたものだそうです。境内には庚申信仰の三猿(見ざる聞かざる言わざる)像が有ります。
 庚申堂の先に、火防樹という槇が建っています。高台に移転した白須賀宿ですが、今度は強い西風により大火が起こりやすくなりました。その延焼を食い止める為に設けられたそうです。
 火防樹を過ぎると脇本陣跡、本陣跡、に差し掛かりますがこの2つは碑のみの様です。少し行くと、曲尺手が有ります。軍事目的以外にも格の低い大名が近くの寺で休憩を装い格上の大名をやり過ごしていたとの事です。
 この先、潮見坂公園の少し手前から格子戸が有る古民家が立ち並んでいる様で、城下町の風情が味わえそうです。
 潮見坂公園は織田信長が武田勝頼を滅ぼし尾張に戻る際、ここで家康にもてなされたという事です。大正時代に公園として整備されたそうですが、現在は碑だけになっています。
 どうやら、潮見坂公園の辺りから坂道になっているようです。そうです坂の頂上に、おんやど白須賀が有ります。おんやどと言うネーミングから、ホテルか旅館と勘違いしそうですが、歴史資料館の様です。休憩所も兼ねています。
 おんやど白須賀の辺りが潮見坂になります。江戸時代には街道一の景勝地で、西国から江戸に向かう時は、最初に太平洋が見える所だったそうです。
 潮見坂を下り少し行ったところから街道を逸れると蔵法寺です。本尊は海から引き揚げられた潮見観音との言い伝えです。遠州灘を行き交う船は帆を下げ観音様の名前を念じて通ったそうです。
 街道に戻り少し行くと、高札場跡になります。碑しか有りませんが、側には、白須賀一里塚の碑も立っています。



 白須賀宿で食さなければいけない物は…と考えると、やはり柏餅です。秀吉が小田原攻めに出兵の際、境宿で休憩し名物の柏餅を「かちわ餅」と聞き間違え縁起が良いと言う言い伝えがあるそうで、春にその、勝和餅を再現し売られているとの事です。



 次回は、白須賀宿から新居宿に向かいます。一里二十四丁(約4.8Km)の道のりです。