オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 桑名宿~宮宿)



 2月13日のちちんぷいぷい、昔の人は偉かったでは日坂宿から掛川宿を歩いていました。お寺の名前は忘れたのですが、日本一大きな獅子舞が有るそうです。



 桑名宿から宮宿を目指します。七里の渡しでは七里と言う事ですが、陸路でも20Km程は有りそうです。



 桑名宿から宮宿へは、佐屋街道と言う別ルートも有ったようです。その間には佐屋宿、神守宿、万場宿、岩塚宿と四つの宿場が存在していました。その、佐屋宿と桑名宿の間にも三里の渡しが有りました。
 七里の渡しが一旦海に出て、宮宿へ行くのに対し、三里の渡しは川を行きかっていました。陸路と合わせると九里にもなり船賃も七里の渡しの倍以上でしたが、女人や子供には迂廻路として利用されていました。桑名宿側の船着き場はしてと同じ処の様で、佐屋宿側は、愛知県津島市にある様です。



 桑名宿と宮宿を結ぶ佐屋街道ですが、史跡や見どころも沢山有ります。
 佐屋宿では、水鶏塚1735年建立された芭蕉の句碑、浄法寺、代官所跡、などが有ります。
 隣の神守宿は佐屋街道で唯一現存する一里塚があり、他にも本陣跡、神守代官所跡が・・・。
 万場宿で、覚王院、国玉神社、秋葉社、光円寺など。
 岩塚宿では、八幡神社には本陣がこの辺りに在ったとされます。遍慶寺は岩塚城の城址石碑があり、七所社は日本武尊が腰掛けたという岩や、岩塚の由来となった古墳も有ります。七所社の道標は高札場が有ったところです。
 宮宿に行くには、陸路で向かうのですが佐屋街道がどのルートか?は又調べなければなりません。現段階では桑名宿から国道1号に出て宮宿に向かう事になります。



 宮宿は江戸から41番目の宿場で、中山道に繋がる美濃路や佐屋街道の分岐点で、東海道最大の宿場町です。同時に、熱田神宮の門前町でもあり、幕府や尾張藩の文書では宮宿ではなく、熱田宿と記されているそうです。
 宮宿の史跡や見どころとしては、当然宮宿側の七里の渡し跡です。現在公園として整備され、熱田湊常夜燈や時の鐘があります。また、桑名宿と宮宿を結ぶ七里の渡しですが、宮宿から四日市宿へ行く十里の渡しと言うものも有ったそうです。
 他には、都々逸発祥の裁断橋、東海道と美濃路の文書にあるほうろく地蔵、脇本陣格の旅籠丹羽家住宅、ひつまぶしの老舗蓬莱軒などが有ります。
 当然熱田神宮もお参りしないといけません。熱田神宮は尾張国三宮で神社本庁の別表神社に定められています。主祭神は熱田大神で神紋は五七桐竹紋です。



 さて、宮宿で美味しいものは?調べましたが、どうしても名古屋市の美味しいものとして一括りにされています。やはりここはひつまぶしとなるでしょう。蓬莱軒にこだわらずに探してみるのも良いでしょう。
 次は鳴海宿への妄想をします。鳴海宿へは約一里半(7.3Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 四日市宿~桑名宿)



 四日市宿から桑名宿を目指します。三里八丁(14.5Km)の道のりです。



 四日市宿からから間もなく、三ツ谷の一里塚に差し掛かり、それを過ぎて暫く行くと力石があり、近くには羽津城跡があります。羽津城は15世紀後半、田原(藤原)盛宗により築城されました。盛宗はムカデ退治で有名な藤原秀郷の子孫だそうです。
 力石の先には富田の一里塚があります。江戸日本橋から98番目の一里塚です。この辺りは富田の立場だった所で賑っていたそうです。近くの、冨田駅の東側に冨田城が有ったそうですが、今は富田幼稚園に名残として銀杏の古木が残っているそうです
 富田の一里塚から暫く行けば、幕末の国学者橘守部の誕生地の遺跡があります。そこから少し行けば、伊勢朝日町駅の側に縄生の一里塚があり、近くには資料館なども有るそうです。
 朝日町駅からさらに進むと、町屋川に差し掛かり川を渡ると、伊勢両宮常夜燈があります。文政年間桑名や岐阜の材木商たちが寄進したものと言う事です。この辺りは舟遊びの船着き場もあり賑っていたそうです。



 少し行くと、矢田立場に突き当たりますが、途中の道は江場松原と言い松並木が続いていたらしいです。火の見櫓が復元されている矢田立場は旅人の休憩所として賑っていました。この辺りは戦災を免れたと言う事で昔ながらの家並みが見ることが出来るそうです。この辺りから街道は曲がり角が多くなりそうです。
 そのまま、進むと吉津屋見附跡があります。曲がり角が多い事から七曲の見附跡と言われているようです。吉津見附が京都からの入り口なのでしょうか?



 四日市宿と桑名宿間には他にも多くの神社仏閣、名所旧跡、史跡が点在しています。特に浄泉坊と言う浄土真宗本願寺派のお寺は、徳川家に縁のある、桑名藩主の正室の菩提寺だったこともあり参勤交代の折、大名たちはかごを降り黙礼したと言う事です。他にも、桑名市博物館や、安永餅店跡などがあります。
 桑名宿は江戸から42番目の宿場町で、宮宿に渡る七里の渡しを控えて大きく賑った宿です。同時に松平家の城下町でもあり、桑名城は、九華公園になっています。
 桑名宿内にも史跡や見どころが、七里の渡し跡は勿論、大塚本陣跡(船津屋)、脇本陣跡(駿河屋)、通り井跡、柿安本店、桑名宗社(春日神社)、海蔵寺(薩摩義士墓所)、佛眼院(喚鐘、桑名藩藩士墓所)他神社仏閣なども数多く有ります。



 さて、桑名宿で美味しいものと言えば、「その手は桑名の焼き蛤」?の蛤ですよね。色んな店で提供しているようです。店先でも販売している処もあり立ち食いも可能な様です。柿安本店は文明開化初期に開業した牛鍋屋由来の老舗の食品メーカーで外食事業でも老舗のお店です。他には、安永餅があります、これは四日市宿笹井屋のなが餅と同じもので、呼び名が違うだけの様です。只、四日市宿と桑名宿の間でしか食べられない感じがします。
 次は、宮宿に向かいます。約七里と言う事ですが、陸上を移動する場合でも20Kmほどはあるようです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 庄野宿~石薬師宿)



 庄野宿から石薬師宿を目指します。距離にして一里(3.9km)も無い道のりです。



 庄野宿から国道1号に出て暫く進むと再び東海道に入ります。程なく、石薬師の一里塚があります。江戸日本橋から数えると102番目の1里塚です。此処が石薬師宿の入り口となるらしいです。
 少し行って、街道から逸れると、石薬師寺の蒲桜があり、ヤマザクラの一種と言う事です。石薬師寺自体は少し離れた所にあります。
 石薬師寺は、真言宗東寺派のお寺で、元は高富山西福寺瑠璃光院と称されていたそうですが、江戸時代に高富山瑠璃光院石薬師寺となったらしいです。本尊は薬師如来です。



 蒲桜と石薬師寺の間に、蒲冠者範頼之社と言う源頼朝の弟、源範頼を祀った神社が有ります。願望成就の神様として祀られている様です。
 石薬師寺から少し行くと、佐佐木信綱記念館があり、側には生家もあります。佐佐木信綱は武将の佐々木信綱、音楽家の佐々木信綱、歌人の佐佐木信綱といますが、石薬師宿では、歌人佐佐木信綱を言います。有名なのは、唱歌「夏は来ぬ」の歌詞を書いた歌人として知られています。
 佐佐木信綱記念館から直ぐに、小澤本陣跡に差し掛かります。これは、小沢家が勤めたため小澤本陣と呼ばれているようです。建物は、明治時代に建て替えられ現在は資料館となっています。
 資料館館から少し行くと、北町の地蔵堂があります。どうやら、此処が石薬師宿の江戸側の入り口の様です。
 石薬師宿は、宿場町と同時に、石薬師寺の門前町として栄えましたが、関宿と四日市宿に挟まれた場所で宿場としては、大きくなりませんでしたが、門前町としては賑っていたそうです。



 さて、石薬師宿の美味しいものですが、庄野宿同様これと言ったものはありませんでした。美味しそうなお店はあるようですが、石薬師宿でなければ頂けない様なものではなさそうです。
 次は、四日市宿、三里八丁(11.2km)を目指します。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 亀山宿~庄野宿)



 亀山宿から庄野宿、約二里(7.7Km)の旅になります。



 亀山宿(露心庵跡)を出発し、暫く行くと、亀山市和田地区に入り、和田1里塚が有ります。この、一里塚は復元された物の様ですが、道路が拡幅されるまでは、塚の一分が残っていたそうです。側には、和田の道標もあり、市内に残存する最古のものらしいです。
 和田の道標から直ぐに、法悦供養塔が立っています。この辺りは過って刑場だったらしく、その供養に建てられたそうです。
 途中、街道を反れて県道641号に入り、県道639号から安楽川を渡ったところに能褒野御墓が有ります。此処は日本武尊の墓とされていて、前方後円墳になっています。側には能褒野神社も有るそうです。



 街道に戻って、もう一度安楽川を渡ると、川俣神社が有ります。川俣神社は鈴鹿川沿いに6社有るそうです。鈴鹿川と安楽川が合流する所に点在しているのではないでしょうか?
 少し行くと、中富田一里塚が有りその裏にも川俣神社が有ります。そこから、もう少し行くと、女人堤防塚に差し掛かります。この辺りは、亀山藩と神戸藩の境、鈴鹿川と安楽川の合流地点で水害に悩まされていた処でもあります。それを女だけで堤防を築いたらしいと言う事です。



 その先に本陣跡があります。どうやら、そこが西の入口の様です。その手前にも川俣神社があるようです。
 庄野宿は、東海道で最後に設置された宿場です。関宿や四日市宿の間にある庄野宿は宿泊客が少なく、規模もかなり小さかった様です。現在宿場内には、庄野宿資料館(旧小林家住宅)、問屋場跡、本陣跡、高札馬跡、脇本陣跡などの史跡や見どころがあります。
 庄野宿には、これと言った美味しいものは見当たりませんでした。宿場の規模が小さいのもあるようです。庄野宿で無いと頂く事の出来ない様なものは、残念ながらありません。
 次は、石薬師宿を目指します。距離にして、僅か二七丁(3.9Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 関宿~亀山宿)



 関宿から亀山宿約一里半(6.9Km)の妄想の旅です。



 関宿、東の追分を出発して直ぐ、お万のもたれ松と言うものがあります。親の仇を討つ為武道に励んでいた女性で、この松に身を隠したという言い伝えがあり、関宿内にお万の墓もあります。
 そのまま、少し、進むと大岡寺畷と呼ばれる地区に掛かります。鈴鹿川沿いを通る道です、過っては松並木が植わっていましたが、現在は桜が植えられているそうです。
 大岡寺畷から暫く行くと、野村一里塚が有ります。この一里塚は三重県で唯一の現存する一里塚です。側には樹齢400年高さ33mの巨大椋が植わっています。100mほど先には一里塚の休憩所も・・・
 野村一里塚から少し行くと、いよいよ亀山宿の入り口と言える、京口門跡です。当時はかなり立派な門だったようで、「亀山に過ぎたるものの二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謳われたそうです。



 亀山宿は、宿場町と同時に、城下町でもあります。1264年平実忠の築城から始まります。藩領内に幕府徳川幕府直轄の宿場が置かれていた為大名たちは亀山宿にとまる事を遠慮したといわれ、宿場の規模はそれほど大きくはならなかったということです。
 亀山宿の範囲は、京口門辺りから露心庵跡辺りと思われます。露心庵は1584年神戸正武による亀山城襲撃で命を落とした戦死者を葬った供養塚だったようです。
 関宿と同様、宿場内には見どころが多く有ります。亀山城跡は亀山公園の一部として整備されています。他に、江戸口門跡があり江戸口門と京口門の間が城下町とされていたそうです。更に大手門跡や、西町問屋場跡などが有り、古い街並みも楽しめそうです。



 亀山宿での美味しいものは?やはり、亀山と言えば、亀山ラーメン、牛骨味噌スープのラーメンです。関宿でも取り上げた、みそ焼きうどんもいろんな店で提供されているようです。
 次は、庄野宿をめざします。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 坂下宿~関宿)



 坂下宿から関宿は約一里二四丁(6.79km)の距離です。



 坂下宿の東の出口、河原谷橋を出発1km程で沓掛集落に差し掛かります。沓掛とは、馬や牛のわらじを沓と言い、ここでわらじを取り替え旅の安全を祈り沓を木などに掛けた所と言う事です。
 沓掛から国道1号に出て、暫く行くと西の追分に到着します。沓掛・西の追分間にはあまりこれと言った見どころは無い様です。



 西の追分は当然関宿の西の入り口にあたります。関宿は昔から交通の要衝で、奈良時代には「鈴鹿の関」が置かれ、関宿も此処から来ているそうです。
 江戸時代になると、西の追分で大和街道、東の追分で伊勢街道分岐することから、多くの旅人賑っていた様です。更に、東西の追分の間は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、旧建設省の日本の道100選にも選ばれています。
 東西の追分の中で見どころは十分にあるようです。



 観音院と言うお寺は、関宿の守り神で嵯峨天皇の時代に開創されたお寺です。その先に地蔵院と言うお寺があり、日本最古の地蔵菩薩を本尊とするお寺です、741年の開創で本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財だそうです。
 観音院から地蔵院の間にも、嘉永年間建築の旧家などが軒を並べています。地蔵院の側の会津屋は、元は関宿有数の大旅籠だった所で現在は食事処となっています。この先、東の追分までにも見どころは結構あるようです。
 東の追分まで来ると、伊勢への分岐点と言う事もあり、伊勢神宮一の鳥居と常夜燈などが残っています。
 関宿に入ると、徒歩で散策するのが良いのかな?と感じます。
 さて、関宿で美味しいものは?と、調べると、幾つかありました。まずは、会津屋ですね、山菜お強が名物だそうです。他には、JR関駅の側に、道の駅関宿が有ります。そこで有るのが、みそ焼きうどん。他に亀山ラーメンなどが有ります。宿場内には、和菓子処も多く有るようです。
 次は、亀山宿を目指す妄想です。