オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 二川宿~白須賀宿)



 二川宿から白須賀宿を目指します。距離にして二里十六町(約8.1Km)の道のりです。



 県境を越えると、間もなく白須賀宿西の入り口にあたる高札場立場跡です。二川宿と白須賀宿の間の史跡は細谷一里塚があるだけです。



 細谷一里塚は、二川宿を出て暫く行かなければなりません。豊橋には、4つの一里塚が有り細谷一里塚だけが現存する一里塚との事です。地元では一里山一里塚と言うそうです。この一里塚の手前で、冬場の天気の良い日には富士山を観ることが出来るらしいです。
 細谷一里塚から少し行くと、いよいよ静岡県遠江国に入ります。間もなく、白須賀宿です。
 白須賀宿は江戸から32番目の宿場で、県境を越えた辺りは境宿と呼ばれたようで柏餅が有名で白須賀名物だったらしいです。
 この宿場は、1707年宝永地震とその津波で大きな被害を受け、現在の位置に移りました。



 白須賀宿には、高札場立場跡、庚申堂、火防樹、脇本陣跡、本陣跡、曲尺手、潮見坂公園、おんやど白須賀、潮見坂、蔵法寺、高札場跡などの史跡が有ります。境宿も白須賀宿の1部になります。
 高札場立場跡は碑だけが立っている様です。庚申堂は1681年建立されましたが、現在のものは1841年再建されたものだそうです。境内には庚申信仰の三猿(見ざる聞かざる言わざる)像が有ります。
 庚申堂の先に、火防樹という槇が建っています。高台に移転した白須賀宿ですが、今度は強い西風により大火が起こりやすくなりました。その延焼を食い止める為に設けられたそうです。
 火防樹を過ぎると脇本陣跡、本陣跡、に差し掛かりますがこの2つは碑のみの様です。少し行くと、曲尺手が有ります。軍事目的以外にも格の低い大名が近くの寺で休憩を装い格上の大名をやり過ごしていたとの事です。
 この先、潮見坂公園の少し手前から格子戸が有る古民家が立ち並んでいる様で、城下町の風情が味わえそうです。
 潮見坂公園は織田信長が武田勝頼を滅ぼし尾張に戻る際、ここで家康にもてなされたという事です。大正時代に公園として整備されたそうですが、現在は碑だけになっています。
 どうやら、潮見坂公園の辺りから坂道になっているようです。そうです坂の頂上に、おんやど白須賀が有ります。おんやどと言うネーミングから、ホテルか旅館と勘違いしそうですが、歴史資料館の様です。休憩所も兼ねています。
 おんやど白須賀の辺りが潮見坂になります。江戸時代には街道一の景勝地で、西国から江戸に向かう時は、最初に太平洋が見える所だったそうです。
 潮見坂を下り少し行ったところから街道を逸れると蔵法寺です。本尊は海から引き揚げられた潮見観音との言い伝えです。遠州灘を行き交う船は帆を下げ観音様の名前を念じて通ったそうです。
 街道に戻り少し行くと、高札場跡になります。碑しか有りませんが、側には、白須賀一里塚の碑も立っています。



 白須賀宿で食さなければいけない物は…と考えると、やはり柏餅です。秀吉が小田原攻めに出兵の際、境宿で休憩し名物の柏餅を「かちわ餅」と聞き間違え縁起が良いと言う言い伝えがあるそうで、春にその、勝和餅を再現し売られているとの事です。



 次回は、白須賀宿から新居宿に向かいます。一里二十四丁(約4.8Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 吉田宿~二川宿)



 吉田宿から二川宿へと向かいます。道のりは一里二十町(約7.8Km)です。



 吉田宿と二川宿の間には、秋葉山常夜燈、壽泉禅寺、飯村一里塚、岩屋観音、火打坂、などが有ります。二川宿の京都側入り口は二川駅当たりの様です。



 吉田宿を出ると、直ぐに秋葉山常夜燈が有ります。そのまま進むと、壽泉禅寺に差し掛かります延命地蔵尊が祀られているようで、境内には三重塔が建立されているそうです。
 壽泉禅寺から少し行くと、飯村一里塚を通ります江戸から73里目の一里塚です。飯村と書いて「いむれ」と読むそうです。
 飯村一里塚を過ぎると、火打坂に差し掛かります。火打坂には北縁の上道と南縁の下道が有るとの事です。下道を通ると、岩屋観音が有ります。山の上に観音像が祀られており、聖観音像で、青銅で作られているそうです。この観音像は昭和25年に再興されたもので、前の観音像は戦争で供出されたとの事です。
 火打坂の下道を行くと、東海道本線と並行して進むことになります。すぐに、JR二川駅に到着しますが、この辺りが西の入り口になるようです。



 江戸から33番目の宿場である二川宿は、東海道設定時から二川村と大岩村の2村で宿場として構成されていましたが、両村の間隔が離れていた為、大岩村は町となり旅籠は設置されなかったという事です。
 宿場内位には、立場茶屋、大岩明神社、西問屋場、高札場跡、二川宿本陣、二川一里塚、などの史跡が有ります。
 二川駅から直ぐの所に、立場茶屋跡があり、その先に大岩明神社が有ります。文武天皇の時代に岩屋山の南に建てられたのが、宿場が出来た時にこの地に移って来たという言い伝えです。
 更に街道を進むと西問屋場、高札場の碑が設置されています。そこを過ぎると二川宿本陣です。旧東海道で草津宿と共に現存する本陣の一つで、現在は修復され資料館として一般公開されているそうです。
 少し進み、東海道本線と新幹線が分岐する辺りに二川一里塚が有りこの辺りが東の入り口となるようです。



 二川宿での旨いモンはないのか?調べてみると、街道沿いに旧町家を模した建物の和菓子屋さんが有るらしく麩饅頭が美味しいとの口コミです。
 さて、二川宿を後にするといよいよ静岡県に入ります。白須賀宿二里十六町(約8.1Km)を目指します。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 御油宿~吉田宿)



 昔の人はエライ!の再開です。



 再開最初は、御油宿から吉田宿に向かいます。二里二十二丁(12.7Km)の道のりです。
 御油宿を出発し、御油橋を渡ると御油宿とはお別れです。



 御油宿と吉田宿の西入り口、西惣門の間には本坂越え追分、御油一里塚、伊奈一理里塚、伊奈立場茶屋跡、菟足神社、子だか橋碑、瓜郷遺跡、下地一里塚、聖眼寺、の史跡が点在します。
 御油宿を出発して直ぐ、本坂越え追分が有ります。此処は東海道と姫街道の分岐点で秋葉常夜燈、秋葉三尺坊道標、砥鹿神社鳳来寺道標、姫街道道標などが設置されているそうです。姫街道は見附宿に通じる新居関の取り調べが女性に厳しかったらしく、それを嫌い、気質関を通る道を選び、姫街道と呼ばれるようになったとの事ですが、正式名称は本坂道といいます。本坂越え追分の先に御油一里塚が有ります。江戸より七十六里の地点になります。
 御油一里塚から暫く進むと、伊奈一里塚が有ります。江戸か七十五里の一里塚です。近くには、伊奈立場茶屋があり、標柱の後ろには芭蕉と門人加藤鳥巣の句碑が有るとの事です。茶屋では良香散という腹薬が売られ有名だったとの事です。
 伊奈一里塚を過ぎると、菟足神社と近くに子だか橋が有り、子だか橋には生贄の伝説が有り菟足神社の大祭の日に生贄をささげるものだったらしいです。
 子だか橋から暫く行くと、聖眼寺に着きます。子だか橋と聖眼寺の中間に、瓜郷遺跡が有り、弥生時代のものが多く出土しています。聖眼寺の手前にも下地一里塚が有ります。聖眼寺には松葉塚という芭蕉の句碑が有ります。



 聖眼寺を過ぎ、豊川を越えると間もなく吉田宿の入り口西惣門です。
 吉田宿は、江戸から数えると34番目の宿場で東海道が設定された当初からの宿場です。街並みは二十三町三十間とかなり大きな宿場だったようです。又、吉田宿は城下町と湊町の一面も併せ持った宿場でもあります。
 その吉田宿には西惣門、本陣跡、問屋場、東惣門、などが有り、街道沿いには豊橋公園が有り、吉田城も建っています。
 西惣門の手前、湊町神明社の境内に芭蕉の句碑が有り、御油・吉田間には、芭蕉の句が結構ありそうです。
 西惣門の近くに、本陣跡碑が有り、本陣は二軒脇本陣が一軒有りました。本陣跡を過ぎると、問屋場跡の標柱が有るとの事です。そのまま街道を進むと、東の入り口東惣門に到着します。



 吉田宿で、頂かなければいけない物は無いか?調べてみると豊橋カレーうどんと言うものが有りました。ご飯の上にとろろを掛け、その上にカレーうどんを盛り付けうずらの卵を盛り付けた物らしいのですが、かなりボリュームが有りそうです。他に、菜飯田楽というのが有る様で、菊宗という処で本陣跡の直ぐ近くにあるそうです。
 さて、次の宿場は二川宿です。一里二十町(約7.8Km)の道のりになります。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 赤坂宿~御油宿)



 赤坂宿から御油宿へ向かいます。僅か一六丁(1.7Km)の道のりです。



 御油宿の、京都側の入り口は、本陣跡だと思われます。
 赤坂宿と御油宿本陣跡の間には、関川神社、御油の松並木、東林寺などの史跡が有ります。
 関川神社は、赤坂宿の、江戸側入り口である東見附跡の直ぐ側にあります。境内には、樹齢800年高さ25mの楠と芭蕉の句碑が有ります。句は「夏の月御油より出でて赤坂や」と読まれています。
 出発して、御油宿を目指すと途中松並木が有ります。この松並木は家康の命で赤坂御位の真ん中に造った事で赤坂宿と御油宿の二つの宿に別れました。この事から、江戸に向かう際は赤坂宿、京に向かう時は御油宿に泊まると言うルールが存在しました。



 松並木を過ぎると街道の左に東林寺が有ります。白蓮院招賢山東林寺は、御油町の中心寺院だったそうでなかなか由緒のあるお寺の様です。墓地には、宿場時代の、遊女たちの墓が並んでいます。間もなく西の入口本宿です。



 御油宿は、江戸から35番目の宿場です。本陣が少ない時でも2軒あり、宿場の大きさより、賑っていた様です。隣の吉田宿や赤坂宿と共に、飯盛女を多く抱えており「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、何のよしみで江戸通い」と言われるほどだったという事です。
 宿場内には、本陣跡、松並木資料館、高札場跡、ベルツ花夫人ゆかりの地、などが有ります。
 本陣跡の碑が有る場所は、鈴木半左衛門が営んでいた本陣だったという事です。



 本陣跡から直ぐの所に、松並木資料館が有ります。国の天然記念物である御油の松並木と御油宿に関する資料、御油の復元模型、広重の浮世絵版画などが展示されています。拝観は無料との事です。
 松並木資料館の先に、高札場跡があります。看板だけの様です。



 高札場跡の斜め向かいに、ベルツ花夫人の看板が有るそうです。ベルツ花夫人(本名、荒井花子 東京生まれ)は、明治政府がドイツから招いた医師ベルツ博士の夫人で、博士の任期終了後ドイツに渡りましたが、博士没後帰国日本で亡くなりました。父親の生家が此処だったという事です。
 御油宿の美味しいものですが、やはり、同じ豊川市内と言う事も有り、赤坂宿と同じように稲荷ものとなるでしょう。
 次の妄想は、吉田宿、二里22丁(12.7Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 藤川宿~赤坂宿)



 今回の妄想は、藤川宿から赤坂宿二里九丁(10.3Km)を目指します。



 実は、藤川宿と赤坂宿の間にはもう一つ、本宿が有ります。赤坂が宿場になる前に宿場だった所だそうです。
 赤坂宿の京側の入り口は、西の見附になります。藤川宿と赤坂宿西の見附の間の史跡は、山中立場、本宿、磯丸歌碑、長沢一里塚、西の見附と有ります。
 藤川宿を出て暫く行くと、名電山中駅を少し過ぎた辺りが山中立場となります。山中立場も本宿並みに賑っていたそうです。歌川広重は、付近の風景を藤川として描いています。



 電車で1区間程度の先に本宿です。丁度駅前に本宿一里塚が有り、ここが、本宿の入り口と考えて良いでしょう。街道には本陣跡や味噌工場など、古い町並みが残っているようです。街道から少し離れると法蔵寺が有ります。法蔵寺は、二村山法蔵寺と言い浄土宗西山深草派のお寺で、本尊は阿弥陀如来です。徳川家の始祖松平親氏が伽藍を建立したことから、松平家の菩提寺となっているそうで、徳川家康が幼少の頃このお寺で読み書きなどを習ったという事で、その遺品も残っているとの事です。他にも法蔵寺には日本武尊東征の故事が伝わる硯水や、新撰組組長近藤勇の首塚などが有ります。



 本宿を出て、名鉄長沢駅の手前に、観音堂跡があり磯丸(みほとけ)歌碑が有ります。長沢駅を過ぎると、長沢一里塚が有ります。その先に、八幡神社が有り、そのあたりに見附跡の標識があるようです。
 江戸から36番目の赤坂宿は、隣の御油宿と合わせ「赤坂御位」と言う一つの宿場町でした。江戸時代家康の命により2つの宿場に分けられたという事です。その為赤坂宿と御油宿の間は一六丁しか離れていません。



 赤坂宿内の街道沿いには、高札場跡、大橋屋、尾崎屋、浄泉寺、問屋場跡などの史跡が有ります。
 高札場跡の近くには、陣屋跡の説明看板もあるそうで、廃藩置県の折には三河県の役所になっていたらしいです。
 大橋屋は1649年創業の旅籠で、広重の、絵のモデルにもなっています。2015年に旅籠としての営業を終了されました。近くの尾崎屋は曲げ物製造卸問屋です。
 浄泉寺は浄土宗のお寺で、境内の観音堂には百観音が安置されているという事です。本堂前のソテツは広重の絵で有名だそうです。
 問屋場跡は説明看板のみですが、向の本陣跡は資料館になっているようです。



 さて、赤坂宿での美味しいものを調べてみると、隣の御油宿に日本3大稲荷の豊川稲荷が有ります。そうなると、やはり稲荷寿司他の稲荷物ですね。稲荷ずしは勿論、いなりバーガーやいなりうどん、などお店によって、様々な物が提供されているようです。赤坂宿か御油宿で食べたいですね!
 次は、御油宿へと向かいます。僅か一六丁(1.7Km)の距離です。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 岡崎宿~藤川宿)



 今回は、岡崎宿から藤川宿一里二五丁(7.3Km)へ妄想を馳せます。



 藤川宿の西の入り口は、西棒鼻と言う事です。
 岡崎宿と西棒鼻の、間に有る史跡等は大平一里塚、大岡越前守陣屋跡、吉良道々標、藤川一里塚、十王堂、藤川西棒鼻跡と続きます。



 岡崎宿を出発して、暫く行くと大岡越前守陣屋跡に着きます。江戸町奉行の大岡越前が一万石の大名になってから明治まで大岡家が西大平藩主として陣屋をおいていました。手前には、大平一里塚が有ります。
 大岡越前守陣屋跡から、かなりの距離を行くと、吉良道と分岐する吉良道々標に差し掛かります。吉良道は三河湾から海産物などが運ばれた重要な街道だったそうです。此処の吉良と言うのは、忠臣蔵の吉良上野介が領主を務めた所です。芝居では悪人ですが、実際は名君だった説も有ります。



 吉良道々標から少し進むと、西の入口、藤川西棒鼻に到着です。藤川宿では、西棒鼻、東棒鼻共に復元されているそうです。大名が通るときは本陣、問屋が出迎え口上を述べていたらしいです。
 その手前には、十王堂が有り、境内には芭蕉の句碑が有るそうで、脇には藤川一里塚も有ります。十王堂は冥土で死者を裁く、閻魔大王を元とする十人の仏様を祀ったお寺です。
 西棒鼻を過ぎると、藤川一里塚です。宿場には、藤川宿脇本陣跡、本陣跡、問屋場跡、高札場跡、などの史跡が有ります。
 脇本陣は藤川宿資料館となっており、当時の歴史を無料で学べる様です。門だけが当時のものだそうです。
 本陣、問屋場、高札場は碑が有るだけの様です。



 藤川宿の美味しいものです。探してみました、藤川宿ではむらさき麦が名産品の様です。道の駅藤川宿でむらさき麦を使ったメニューが提供されているそうです。
 次は、赤坂宿を目指します。距離にして二里九丁(10.3Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 池鯉鮒宿~岡崎宿)



 池鯉鮒宿から岡崎宿への妄想をします。距離にして約三里三十丁(15.3Km)の道のりです。



 池鯉鮒宿を出ても、岡崎宿へ向かう道沿いには、池鯉鮒宿に関わる史跡が幾つか有ります。
 池鯉鮒宿、岡崎宿間には、来迎寺、松並木、尾崎の一里塚、明治用水碑、八丁味噌蔵、岡崎城下二七曲道標板屋町角などの史跡があります。岡崎宿の西の入り口としては、岡崎宿西本陣跡だとは考えるのですが、かなり東の方へ来てしまいますので、岡崎城下二七曲道標板屋町角を西の入り口とすることにしました。
 池鯉鮒宿を出発し、暫く行くと来迎寺に到着です。来迎寺は、臨済宗のお寺です。お寺の前には来迎寺一里塚が有り、街道の両側に現存しています。
 来迎寺から2Km程進むと明治用水碑に差し掛かります。明治用水は西三河一帯に灌漑する用水路でした。現在は記念碑が残っているようです。その周辺には松並木が続いています。知立の松並木、安城の松並木、尾崎の松並木と有るとの事ですが、調べてみると、知立の松並木も安城の松並木も明治用水の辺りがそれらしいとの事です。どうやら同じものなのかもしれません。尾崎の松並木もさほど離れていない様です。



 ここから、少し距離は有ります、岡宿の手前まで進みます。矢作川を渡り街道を行くと、味噌工場が立ち並ぶ地域に来ます。八丁味噌の蔵屋敷です。ほどなく、岡崎城下二七曲道標板屋町角に、東海道五十三次です。取り敢えずここを、西の入り口にしておきます。
 岡崎宿は、岡崎城の城下町でもあり、徳川家康生誕の地でもあります。又、駿河国駿府宿に次いでの規模を誇る宿場町でした。



 岡崎宿の史跡には、岡崎城、東惣門跡、岡崎信用金庫資料館、岡崎宿西本陣跡、岡崎二七曲碑などが有ります。
 二七曲碑は、防衛の意味で城下の道が屈折しているのが常で、岡崎宿の二七曲はその典型の様です。曲がり角ごとにその碑があると言う事ですが、見つからない物もあるそうです。
 岡崎城は戦国時代から松平氏の持城で徳川家康の生地でもあり、別名龍城とも言われます。お城は、整備された岡崎公園の中にあり、多くの史跡があります。



 岡崎信用金庫資料館は、1917年に建てられました。ルネッサンス様式の建物は大正時代に流行っていた幾何学的な意匠も織り交ぜられています。
 岡崎宿西本陣は、当初本陣が二軒有ったそうですが、後に本陣が三軒、脇本陣が三軒と言う規模になった様です。



 さて、岡崎宿の美味しいものですが、地域が岡崎市のご当地グルメを売り出そうとかなり力を入れられているようです。その中で、これは?と言うものが有りました。
 岡崎まぜ麺は、店によって和洋中、創作と有ります。八丁味噌蔵群のキャラクターのどら焼き、八丁味噌のソフトクリーム、八丁味噌の田楽など何を食べるか?迷う感じです。
 次の妄想は、藤川宿一里二五丁(7.3Km)への旅です。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 鳴海宿~池鯉鮒宿)



 2月16日の所さんお届けモノです!では、チャンカワイさんが東海道見付宿から袋井宿、掛川宿、日坂宿、金屋宿と歩いていました。これで、ちちんぷいぷいの昔の人は偉かったと出会った事になります。



 鳴海宿から池鯉鮒宿二里三十丁(12.2Km)の妄想です。地鯉鮒宿は知立宿とも表示することがあるようです。



 池鯉鮒宿の京都側の入り口は、知立古城址を過ぎた辺りが入り口にあたります。
 鳴海宿から池鯉鮒宿の間には岡家住宅、有松・鳴海絞会館、桶狭間古戦場、高徳院、阿野一里塚、洞隣寺、総持寺、知立神社、知立城跡などの史跡や見どころがあります。



 鳴海宿を出て、程なく有松・鳴海絞会館が有り、絞作業の見学や展示販売されているそうです。その周辺は重要伝統建造物群保存地区になっており、岡家住宅他、有松の街並みを視ることが出来るようです。
 絞会館から少し行くと、桶狭間古戦場です。勿論、織田信長が兵力2万5千の今川軍を三千の兵で破った桶狭間の戦いの舞台になった場所です。現在は公園になっていて、今川義元の墓なども有ります。
 古戦場の近くにある、高徳院は高野山真言宗のお寺です。今川義元は桶狭間の戦いの為に本陣をここに置いたと言う事です。古戦場、高徳院共に今川義元に纏わる史跡が多く有ります。又、近くには中京競馬場が有り、競馬開催日と重なった場合はそちらで1発勝負?
 古戦場の先に阿野一里塚が有り、江戸から86番目の一里塚です。街道の両脇に現存する一里塚は国の指定史跡だという事です。この一里塚を離れ境川を渡ると、尾張国から三河国に入ります。



 三河国に入り少し行くと、洞隣寺です。曹洞宗のお寺で開基は徳川家康の叔父で刈谷城主の水野忠重と言う事です。刈谷城は西へ数キロ離れた所で亀城公園として整備されています。
 洞隣寺から少し行き、逢妻川を渡ります。すぐに総持寺と知立神社が有ります。
 総持寺は、天台宗のお寺で、家康の側室於万の方生誕の地とされています。知立神社の境内に総持寺が有る様な感じです。
 知立神社は三河国二宮で江戸時代には東海道三社の一つに数えられたそうです。境内には多宝塔がありますが、これは12月に紹介した柏原八幡神社の三重塔と同じように塔から本尊を省き文庫にすることにより、神仏分離令から逃れた様です。本尊は総持寺に有るとの事です。
 総持寺の数百メートル先には、知立城跡が有ります。知立城は知立神社の神主の築城とされており、その居館が城の始まりとされているそうです。現在は公園になっていて石碑と案内板があるだけと言う事です。



 知立城跡を過ぎた辺りが、池鯉鮒宿の入り口と言う事です。
 池鯉鮒宿は、江戸から39番目、京都からは15番目の宿場です。池鯉鮒は歴史的仮名遣いで(ちりふ)と読まれます。中世には鎌倉街道の要衝として江戸時代は東海道の宿場町として栄えた所です。池鯉鮒の地名は、近くに鯉や鮒の多く住む池があった事ではないか?と言う事です。
 宿場内には、池鯉鮒宿本陣跡、問屋場跡、慈眼寺の史跡があります。本陣跡、問屋場跡は跡碑のみとなっています。
 慈眼寺は、福聚山慈眼寺と言い阿弥陀如来を本尊とする曹洞宗のお寺です。お寺の東側は馬の集積地で馬市も開かれていたそうで、馬の供養の為馬頭観音が祀られたという事です。
 鳴海宿から池鯉鮒宿間のルートプランは有松・鳴海絞会館―桶狭間古戦場―高徳院―阿野一里塚―洞隣寺―総持寺―知立神社―知立城跡と言った計画になります。
 宿場内の計画は、本陣跡―問屋場跡―慈眼寺となります。



 さて、池鯉鮒宿での美味しいものは、いもかわうどんと言うのが有ります。平打ちのうどんできしめんのルーツとも言われている物です。明治時代に途絶えていましたが、2007年に復活したそうです。鳴海宿から池鯉鮒宿の間で食べなければいけない物だと思います。
 次回は岡崎宿へと妄想の旅をします。距離は約三里三十丁(15.3Km)となります。