オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 舞阪宿~浜松宿)



 3月29日の「所さんお届けモノです!」では、チャンカワイさんが金谷宿、島田宿、藤枝宿、岡部宿、鞠子宿歩いて、東海道の創業100年以上の老舗の新名物を紹介していました。昔の人はエライ!も、もう少しで追いつけそうです。



 舞阪宿から浜松宿へ向かいます。二里三十丁(約12.1Km)の道のりです。
 丁度、MBSの、ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)では、浜松宿・舞阪宿の辺りを歩いています。という事は・・・、妄想ではどこかで、出会った事になります。



 浜松宿、西の入り口はハッキリしません。鎧橋辺りから浜松宿と言う感じでしょうか?
 舞阪宿と浜松宿の間には、浪小僧像、舞阪松並木、春日神社、秋葉常夜燈、篠原一里塚、立場本陣跡、高札場跡、二つ御堂、若林一里塚、などの史跡が有ります。



 舞阪見付石垣を出発して、国道301号との交差点辺りに浪小僧像が有ります。海が荒れたり、風が強くなる時に海の中から太鼓で知らせてくれるそうです。
 浪小僧像を過ぎると、舞阪の松並木が続いていきます。江戸時代街道に松や杉を植えさせたのが始まりとされます。此処の松並木は正徳年間1420本の松が植えられたそうです。現在は、700mに渡り、370本の松が植わっているそうです。松並木の中ほどには、舞阪宿の碑が置かれています。ここで、舞阪宿を離れることになります。
 松並木が終わった、辺りに春日神社が有ります。奈良の春日神社から勧請されたものだそうです。進んでいくと、秋葉常夜燈が点在しています。
 暫く行くと、篠原一里塚の看板が設置されています。近くには立木本陣跡がありますが、看板だけの様です。その先に高札場跡の標識があります。その手前に麦飯長者の標識も有り、昔小野田五郎兵衛と言う長者が旅人に麦飯を振舞った事から麦飯長者と呼ばれたという言い伝えらしいです。



 高札場跡から少し進むと、二つ御堂で、北堂と南堂が有ります。奥州平泉の藤原秀衡が京で大病を患っていると聞いた愛妾が京へ上る途中、この地で秀衡死去の知らせを聞き菩提を弔うため北堂を建立しましたが、秀衡死去は誤報で、病が回復し帰国途中の秀衡はこの話を聞いて南堂を建立したという話だそうです。
 二つ御堂を過ぎると、八丁畷が始まります。八丁畷は真っ直ぐな道が八丁続く事から言われています。
 八丁畷に入ると直ぐに若林一里塚の碑が有ります。その先、鎧橋に差し掛かります。この辺りが浜松宿西の入り口でしょうか?
 浜松宿は、江戸から29番目、京から25番目の宿場ですが距離的には、江戸と京の丁度中間点にあたるとの事です。又、浜松城の城下町としても栄え、遠江国、駿河国を通じて最大の宿場でした。
 浜松宿の宿場内には、鎧橋、子育て地蔵尊、番所跡、梅屋本陣、川口本陣、杉浦本陣、佐藤本陣、高札場跡、大手門跡、浜松城、などの史跡が有ります。



 浜松宿西の入り口では?と思う鎧橋は、平安時代末期比叡山の雑兵に鴨江寺を攻められた時、寺の軍兵が鎧を着てこの橋で守ったという処から鎧橋と言われるようになったそうです。
 鎧橋の先、八丁畷が終わった所には、子育て地蔵尊が有ります。数体の石仏が並んで祀られているそうです。
 子育て地蔵尊を過ぎた先に、番所跡、梅屋本陣、川口本陣、杉浦本陣、佐藤本陣、高札場跡が続けて現れます。何れも碑か看板のみとなっています。この辺りは浜松宿本陣通りと呼ばれている処です。
 本陣通りを抜けた所の交差点に、大手門跡の碑が立っています。交差点を右に行くと街道、直進すると浜松城となります。浜松城は15世紀の築城時は曳馬城と呼ばれていました。1570年徳川家康が入城し浜松城に改名したとの事です。その後、歴代城主の多くが幕府の重役に就き出世城とも呼ばれたそうです。城址は戦後、浜松城公園として整備され、1958年天守が再建されました。
 交差点に戻り、街道を暫く行くと、馬込橋です。此処が東の入り口と言う事になります。



 さて、浜宿の美味しい物は、鰻ばかりに頭が行っていましたが、浜松餃子が有りました。他には遠州焼と言う粉もんがあるそうです。丁度関西で言う葱焼に沢庵が入った物の様な感じらしいです。
 次は、浜松宿から見付宿を目指します。距離にして四里七丁(約14.7Km)となります。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 鳴海宿~池鯉鮒宿)



 2月16日の所さんお届けモノです!では、チャンカワイさんが東海道見付宿から袋井宿、掛川宿、日坂宿、金屋宿と歩いていました。これで、ちちんぷいぷいの昔の人は偉かったと出会った事になります。



 鳴海宿から池鯉鮒宿二里三十丁(12.2Km)の妄想です。地鯉鮒宿は知立宿とも表示することがあるようです。



 池鯉鮒宿の京都側の入り口は、知立古城址を過ぎた辺りが入り口にあたります。
 鳴海宿から池鯉鮒宿の間には岡家住宅、有松・鳴海絞会館、桶狭間古戦場、高徳院、阿野一里塚、洞隣寺、総持寺、知立神社、知立城跡などの史跡や見どころがあります。



 鳴海宿を出て、程なく有松・鳴海絞会館が有り、絞作業の見学や展示販売されているそうです。その周辺は重要伝統建造物群保存地区になっており、岡家住宅他、有松の街並みを視ることが出来るようです。
 絞会館から少し行くと、桶狭間古戦場です。勿論、織田信長が兵力2万5千の今川軍を三千の兵で破った桶狭間の戦いの舞台になった場所です。現在は公園になっていて、今川義元の墓なども有ります。
 古戦場の近くにある、高徳院は高野山真言宗のお寺です。今川義元は桶狭間の戦いの為に本陣をここに置いたと言う事です。古戦場、高徳院共に今川義元に纏わる史跡が多く有ります。又、近くには中京競馬場が有り、競馬開催日と重なった場合はそちらで1発勝負?
 古戦場の先に阿野一里塚が有り、江戸から86番目の一里塚です。街道の両脇に現存する一里塚は国の指定史跡だという事です。この一里塚を離れ境川を渡ると、尾張国から三河国に入ります。



 三河国に入り少し行くと、洞隣寺です。曹洞宗のお寺で開基は徳川家康の叔父で刈谷城主の水野忠重と言う事です。刈谷城は西へ数キロ離れた所で亀城公園として整備されています。
 洞隣寺から少し行き、逢妻川を渡ります。すぐに総持寺と知立神社が有ります。
 総持寺は、天台宗のお寺で、家康の側室於万の方生誕の地とされています。知立神社の境内に総持寺が有る様な感じです。
 知立神社は三河国二宮で江戸時代には東海道三社の一つに数えられたそうです。境内には多宝塔がありますが、これは12月に紹介した柏原八幡神社の三重塔と同じように塔から本尊を省き文庫にすることにより、神仏分離令から逃れた様です。本尊は総持寺に有るとの事です。
 総持寺の数百メートル先には、知立城跡が有ります。知立城は知立神社の神主の築城とされており、その居館が城の始まりとされているそうです。現在は公園になっていて石碑と案内板があるだけと言う事です。



 知立城跡を過ぎた辺りが、池鯉鮒宿の入り口と言う事です。
 池鯉鮒宿は、江戸から39番目、京都からは15番目の宿場です。池鯉鮒は歴史的仮名遣いで(ちりふ)と読まれます。中世には鎌倉街道の要衝として江戸時代は東海道の宿場町として栄えた所です。池鯉鮒の地名は、近くに鯉や鮒の多く住む池があった事ではないか?と言う事です。
 宿場内には、池鯉鮒宿本陣跡、問屋場跡、慈眼寺の史跡があります。本陣跡、問屋場跡は跡碑のみとなっています。
 慈眼寺は、福聚山慈眼寺と言い阿弥陀如来を本尊とする曹洞宗のお寺です。お寺の東側は馬の集積地で馬市も開かれていたそうで、馬の供養の為馬頭観音が祀られたという事です。
 鳴海宿から池鯉鮒宿間のルートプランは有松・鳴海絞会館―桶狭間古戦場―高徳院―阿野一里塚―洞隣寺―総持寺―知立神社―知立城跡と言った計画になります。
 宿場内の計画は、本陣跡―問屋場跡―慈眼寺となります。



 さて、池鯉鮒宿での美味しいものは、いもかわうどんと言うのが有ります。平打ちのうどんできしめんのルーツとも言われている物です。明治時代に途絶えていましたが、2007年に復活したそうです。鳴海宿から池鯉鮒宿の間で食べなければいけない物だと思います。
 次回は岡崎宿へと妄想の旅をします。距離は約三里三十丁(15.3Km)となります。