オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 舞阪宿~浜松宿)



 3月29日の「所さんお届けモノです!」では、チャンカワイさんが金谷宿、島田宿、藤枝宿、岡部宿、鞠子宿歩いて、東海道の創業100年以上の老舗の新名物を紹介していました。昔の人はエライ!も、もう少しで追いつけそうです。



 舞阪宿から浜松宿へ向かいます。二里三十丁(約12.1Km)の道のりです。
 丁度、MBSの、ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)では、浜松宿・舞阪宿の辺りを歩いています。という事は・・・、妄想ではどこかで、出会った事になります。



 浜松宿、西の入り口はハッキリしません。鎧橋辺りから浜松宿と言う感じでしょうか?
 舞阪宿と浜松宿の間には、浪小僧像、舞阪松並木、春日神社、秋葉常夜燈、篠原一里塚、立場本陣跡、高札場跡、二つ御堂、若林一里塚、などの史跡が有ります。



 舞阪見付石垣を出発して、国道301号との交差点辺りに浪小僧像が有ります。海が荒れたり、風が強くなる時に海の中から太鼓で知らせてくれるそうです。
 浪小僧像を過ぎると、舞阪の松並木が続いていきます。江戸時代街道に松や杉を植えさせたのが始まりとされます。此処の松並木は正徳年間1420本の松が植えられたそうです。現在は、700mに渡り、370本の松が植わっているそうです。松並木の中ほどには、舞阪宿の碑が置かれています。ここで、舞阪宿を離れることになります。
 松並木が終わった、辺りに春日神社が有ります。奈良の春日神社から勧請されたものだそうです。進んでいくと、秋葉常夜燈が点在しています。
 暫く行くと、篠原一里塚の看板が設置されています。近くには立木本陣跡がありますが、看板だけの様です。その先に高札場跡の標識があります。その手前に麦飯長者の標識も有り、昔小野田五郎兵衛と言う長者が旅人に麦飯を振舞った事から麦飯長者と呼ばれたという言い伝えらしいです。



 高札場跡から少し進むと、二つ御堂で、北堂と南堂が有ります。奥州平泉の藤原秀衡が京で大病を患っていると聞いた愛妾が京へ上る途中、この地で秀衡死去の知らせを聞き菩提を弔うため北堂を建立しましたが、秀衡死去は誤報で、病が回復し帰国途中の秀衡はこの話を聞いて南堂を建立したという話だそうです。
 二つ御堂を過ぎると、八丁畷が始まります。八丁畷は真っ直ぐな道が八丁続く事から言われています。
 八丁畷に入ると直ぐに若林一里塚の碑が有ります。その先、鎧橋に差し掛かります。この辺りが浜松宿西の入り口でしょうか?
 浜松宿は、江戸から29番目、京から25番目の宿場ですが距離的には、江戸と京の丁度中間点にあたるとの事です。又、浜松城の城下町としても栄え、遠江国、駿河国を通じて最大の宿場でした。
 浜松宿の宿場内には、鎧橋、子育て地蔵尊、番所跡、梅屋本陣、川口本陣、杉浦本陣、佐藤本陣、高札場跡、大手門跡、浜松城、などの史跡が有ります。



 浜松宿西の入り口では?と思う鎧橋は、平安時代末期比叡山の雑兵に鴨江寺を攻められた時、寺の軍兵が鎧を着てこの橋で守ったという処から鎧橋と言われるようになったそうです。
 鎧橋の先、八丁畷が終わった所には、子育て地蔵尊が有ります。数体の石仏が並んで祀られているそうです。
 子育て地蔵尊を過ぎた先に、番所跡、梅屋本陣、川口本陣、杉浦本陣、佐藤本陣、高札場跡が続けて現れます。何れも碑か看板のみとなっています。この辺りは浜松宿本陣通りと呼ばれている処です。
 本陣通りを抜けた所の交差点に、大手門跡の碑が立っています。交差点を右に行くと街道、直進すると浜松城となります。浜松城は15世紀の築城時は曳馬城と呼ばれていました。1570年徳川家康が入城し浜松城に改名したとの事です。その後、歴代城主の多くが幕府の重役に就き出世城とも呼ばれたそうです。城址は戦後、浜松城公園として整備され、1958年天守が再建されました。
 交差点に戻り、街道を暫く行くと、馬込橋です。此処が東の入り口と言う事になります。



 さて、浜宿の美味しい物は、鰻ばかりに頭が行っていましたが、浜松餃子が有りました。他には遠州焼と言う粉もんがあるそうです。丁度関西で言う葱焼に沢庵が入った物の様な感じらしいです。
 次は、浜松宿から見付宿を目指します。距離にして四里七丁(約14.7Km)となります。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 新居宿~舞阪宿)



 新居宿から舞阪宿へ向かいます。江戸時代は、渡し船で一里の距離でしたが、現在は、陸路で約6.6Kmの道のりになります。



 舞阪宿の、西の入り口は北雁木常夜燈辺りかとおもわれます。
 新居宿と舞阪宿の間には、西浜名橋、中浜名橋、弁天神社、が有ります。



 西浜名橋、中浜名橋、弁天橋は浜名湖を渡る橋です。浜名湖は元々、淡水湖で、新居と舞阪も陸続きで、海面より湖面が高く海水が流れ込むことは有りませんでした。しかし、明応地震の地盤沈下で、海水が流れ込むようになり、宝永地震の津波などで、湖と海を隔てていた陸地が決壊し汽水湖となりました。決壊した場所を今切と呼ばれるようになったとの事です。江戸時代以前は渡し船で、渡っており今切の渡しと言われていました。現在は三つの橋によって陸路で行き来出来るようになっています。
 新居宿を出て、国道203号をしばらく進むと西浜名橋、を渡ることになります。西浜名橋から少し進み中浜名橋を渡ると弁天神社に差し掛かります。
 弁天島にある弁天神社ですが、昔弁天島は砂洲が続き天橋立の様な景色だったそうで、その美しさに誘われ天女が舞い降りたという天女伝説が残っている処です。橋立の丹後地方にも天女伝説が有りますが、丹後地方の話が元になっているのでしょうか?宝永地震の跡ここに弁天神社が建立されたとの事です。境内には正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑も有ります。弁天神社の先には弁天橋が有り、渡ると間もなく、舞阪宿に入ります。
 舞阪宿は、江戸から30番目の宿場で、今切の渡しが控える宿場と言う事から新居宿同様、重要視されていました。



 舞阪宿の中には、北雁木跡、本雁木跡、南雁木跡、西町常夜燈、旧脇本陣茗荷屋、舞阪本陣跡、仲町常夜燈、舞阪一里塚、新町秋葉常夜燈、見附石垣など、沢山の史跡が有ります。



 弁天橋を渡り間もなく、北雁木跡があります。雁木(がんぎ、地元ではがんげ)とは階段状の船着き場を言うそうです。北雁木では、大名や幕府公用役人が使っていました。近くには北雁木常夜燈も有ります。復元されているのは、この北雁木だけとの事です。
 北雁木の先に、本雁木跡と本雁木常夜燈が有ります。本雁木では、一般の武家や庶民が使用していたという事です。
 街道を離れ南に行くと、南雁木です、ここは荷物用ですが庶民も利用していた様です。
 街道に戻ると西町常夜燈に差し掛かります。この常夜燈は文化年間舞阪宿に大火事が有り、その復興を願って建てられたものだそうです。
 その先に、旧脇本陣茗荷屋がります。脇本陣茗荷屋の建物は天保年間に建てられたものを修復・復元したもので、現在一般公開されているそうです。その向かいには本陣跡の碑が立っています。
 脇本陣、本陣、を過ぎて少し行くと仲町常夜燈が、その先にも新町秋葉常夜燈が有ります。舞阪宿には結構常夜燈があります、文化年間の大火事で火防せ、や秋葉信仰が高まり常夜燈が設けられたという事です。秋葉常夜燈の側には舞阪一里塚とその碑もあります。
 秋葉常夜燈を過ぎると見付石垣に差し掛かります。どうやら、此処が東の入り口の様です。



 さて、舞阪宿で頂かなければならない物は?やはり、鰻となりますが、舞阪は漁師街でもあります。冬の牡蠣や、秋の真鯛、活きた車海老をそのまま揚げた「活き車海老天丼」などがおすすめだそうです。



 この先は、浜松宿になります。道のりは二里三十丁(約12.1Km)になります。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 白須賀宿~新居宿)



 新居宿を目指す旅です。距離は一里二十四丁(約4.8Km)となっています。



 新居宿の、西の入り口は棒鼻跡の辺りの様です。白須賀宿と新居宿の間には明治天皇御野立所阯、立場跡、浜名の松並木、紅葉寺、橋本宿跡、風炉の井などの史跡が有ります。



 白須賀宿を出て暫く行く明治天皇御野立所阯が有ります。明治元年東京へ行幸した明治天皇が休憩した所だそうです。柵に囲まれて石碑が有るとの事です。その先に立場跡が有り碑だけが建っている様です。
 立場を過ぎると直ぐに、浜名の松並木が続いています。松並木の途中には、「藤原為家と阿仏尼の歌碑」も建っています。
 松並木が終わった辺りに紅葉寺が有ります。室町六代将軍足利義教がこの寺で紅葉を観た事から紅葉寺と言うそうです。現在寺は、参道だけが残っているそうです。
 紅葉寺から少し行くと、橋本宿になります。民家の前に碑が有り、辺りは街並みが残っているとの事です。橋本宿は新居宿の加宿でした。
 橋本宿から少し行くと、風炉の井です。源頼朝が上洛の際、この井戸水を茶の湯に使ったと言われています。その先は棒鼻跡、新居宿になります。



 江戸から31番目の宿場、新居宿です。平安から中世までは橋本宿が繁栄していたとの事ですが、室町時代の明応地震とその津波で壊滅、新居地区に移転し新居宿となりました。その後も、元禄年間に高潮と津波、宝永年間には宝永地震とその津波に見舞われています。
 新居宿には、棒鼻跡、新居一里塚、寄馬跡、本陣跡、紀伊国屋、新居関、渡船場と史跡が有ります。



 棒鼻跡の棒鼻は駕籠の棒先の事で、大名行列が宿場に入るとき棒先で先頭を整えた場所と言われていますが、実際には道の両側から土塁が出て道幅が狭く一度に大人数が通れない様にしたものらしいです。碑のみが立っているそうです。棒鼻跡の近くに新居一里塚の碑が立っています。
 少し行くと、寄馬跡と本陣跡に差し掛かります。碑があるだけなのですが本陣は三軒有り、疋田八郎兵衛本陣跡、飯田武平衛本陣跡、疋田弥五郎本陣跡とそれぞれの碑が立っているそうです。
 本陣跡を過ぎると、旅籠紀伊国屋が有ります。徳川御三家、紀州藩の御用宿を務めた事から紀伊国屋の屋号を掲げる事を許されたとの事です。現在は資料館になっています。
 その先に、新居関と渡船場が有ります。新居関は家康が新居の元屋敷に創設したのが始まりらしいのですが度重なる災害で、移転が繰り返され、元禄年間に現在の場所に置かれたそうです。創設当初は、今切関所と呼ばれていたとの事です。現在関所は修復され資料館として公開されています。
 江戸時代、新居宿・舞阪宿間は船で行き来していたようで、その渡船場が関所の前に復元されて有るという事です。



 新居宿で美味しいものは、浜名湖畔にある新居宿ですから鰻が先ず思い浮かびますが、どうも湖西市は和菓子が有名な様です。一つが「すわま(すあま)」で、上新粉に砂糖と湯を練り合わせ軽く搗き餅状にした和菓子で、桃の節句の頃新居で売られるそうです。もう一つ、「はまぐり」と言う栗が丸ごと一つ入ったどら焼きが有名だそうです。
 新井宿の次は舞阪宿に向かいます。一里(約6.6Km)の距離ですが一里と言うのは海上での距離だそうです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 二川宿~白須賀宿)



 二川宿から白須賀宿を目指します。距離にして二里十六町(約8.1Km)の道のりです。



 県境を越えると、間もなく白須賀宿西の入り口にあたる高札場立場跡です。二川宿と白須賀宿の間の史跡は細谷一里塚があるだけです。



 細谷一里塚は、二川宿を出て暫く行かなければなりません。豊橋には、4つの一里塚が有り細谷一里塚だけが現存する一里塚との事です。地元では一里山一里塚と言うそうです。この一里塚の手前で、冬場の天気の良い日には富士山を観ることが出来るらしいです。
 細谷一里塚から少し行くと、いよいよ静岡県遠江国に入ります。間もなく、白須賀宿です。
 白須賀宿は江戸から32番目の宿場で、県境を越えた辺りは境宿と呼ばれたようで柏餅が有名で白須賀名物だったらしいです。
 この宿場は、1707年宝永地震とその津波で大きな被害を受け、現在の位置に移りました。



 白須賀宿には、高札場立場跡、庚申堂、火防樹、脇本陣跡、本陣跡、曲尺手、潮見坂公園、おんやど白須賀、潮見坂、蔵法寺、高札場跡などの史跡が有ります。境宿も白須賀宿の1部になります。
 高札場立場跡は碑だけが立っている様です。庚申堂は1681年建立されましたが、現在のものは1841年再建されたものだそうです。境内には庚申信仰の三猿(見ざる聞かざる言わざる)像が有ります。
 庚申堂の先に、火防樹という槇が建っています。高台に移転した白須賀宿ですが、今度は強い西風により大火が起こりやすくなりました。その延焼を食い止める為に設けられたそうです。
 火防樹を過ぎると脇本陣跡、本陣跡、に差し掛かりますがこの2つは碑のみの様です。少し行くと、曲尺手が有ります。軍事目的以外にも格の低い大名が近くの寺で休憩を装い格上の大名をやり過ごしていたとの事です。
 この先、潮見坂公園の少し手前から格子戸が有る古民家が立ち並んでいる様で、城下町の風情が味わえそうです。
 潮見坂公園は織田信長が武田勝頼を滅ぼし尾張に戻る際、ここで家康にもてなされたという事です。大正時代に公園として整備されたそうですが、現在は碑だけになっています。
 どうやら、潮見坂公園の辺りから坂道になっているようです。そうです坂の頂上に、おんやど白須賀が有ります。おんやどと言うネーミングから、ホテルか旅館と勘違いしそうですが、歴史資料館の様です。休憩所も兼ねています。
 おんやど白須賀の辺りが潮見坂になります。江戸時代には街道一の景勝地で、西国から江戸に向かう時は、最初に太平洋が見える所だったそうです。
 潮見坂を下り少し行ったところから街道を逸れると蔵法寺です。本尊は海から引き揚げられた潮見観音との言い伝えです。遠州灘を行き交う船は帆を下げ観音様の名前を念じて通ったそうです。
 街道に戻り少し行くと、高札場跡になります。碑しか有りませんが、側には、白須賀一里塚の碑も立っています。



 白須賀宿で食さなければいけない物は…と考えると、やはり柏餅です。秀吉が小田原攻めに出兵の際、境宿で休憩し名物の柏餅を「かちわ餅」と聞き間違え縁起が良いと言う言い伝えがあるそうで、春にその、勝和餅を再現し売られているとの事です。



 次回は、白須賀宿から新居宿に向かいます。一里二十四丁(約4.8Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 吉田宿~二川宿)



 吉田宿から二川宿へと向かいます。道のりは一里二十町(約7.8Km)です。



 吉田宿と二川宿の間には、秋葉山常夜燈、壽泉禅寺、飯村一里塚、岩屋観音、火打坂、などが有ります。二川宿の京都側入り口は二川駅当たりの様です。



 吉田宿を出ると、直ぐに秋葉山常夜燈が有ります。そのまま進むと、壽泉禅寺に差し掛かります延命地蔵尊が祀られているようで、境内には三重塔が建立されているそうです。
 壽泉禅寺から少し行くと、飯村一里塚を通ります江戸から73里目の一里塚です。飯村と書いて「いむれ」と読むそうです。
 飯村一里塚を過ぎると、火打坂に差し掛かります。火打坂には北縁の上道と南縁の下道が有るとの事です。下道を通ると、岩屋観音が有ります。山の上に観音像が祀られており、聖観音像で、青銅で作られているそうです。この観音像は昭和25年に再興されたもので、前の観音像は戦争で供出されたとの事です。
 火打坂の下道を行くと、東海道本線と並行して進むことになります。すぐに、JR二川駅に到着しますが、この辺りが西の入り口になるようです。



 江戸から33番目の宿場である二川宿は、東海道設定時から二川村と大岩村の2村で宿場として構成されていましたが、両村の間隔が離れていた為、大岩村は町となり旅籠は設置されなかったという事です。
 宿場内位には、立場茶屋、大岩明神社、西問屋場、高札場跡、二川宿本陣、二川一里塚、などの史跡が有ります。
 二川駅から直ぐの所に、立場茶屋跡があり、その先に大岩明神社が有ります。文武天皇の時代に岩屋山の南に建てられたのが、宿場が出来た時にこの地に移って来たという言い伝えです。
 更に街道を進むと西問屋場、高札場の碑が設置されています。そこを過ぎると二川宿本陣です。旧東海道で草津宿と共に現存する本陣の一つで、現在は修復され資料館として一般公開されているそうです。
 少し進み、東海道本線と新幹線が分岐する辺りに二川一里塚が有りこの辺りが東の入り口となるようです。



 二川宿での旨いモンはないのか?調べてみると、街道沿いに旧町家を模した建物の和菓子屋さんが有るらしく麩饅頭が美味しいとの口コミです。
 さて、二川宿を後にするといよいよ静岡県に入ります。白須賀宿二里十六町(約8.1Km)を目指します。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 御油宿~吉田宿)



 昔の人はエライ!の再開です。



 再開最初は、御油宿から吉田宿に向かいます。二里二十二丁(12.7Km)の道のりです。
 御油宿を出発し、御油橋を渡ると御油宿とはお別れです。



 御油宿と吉田宿の西入り口、西惣門の間には本坂越え追分、御油一里塚、伊奈一理里塚、伊奈立場茶屋跡、菟足神社、子だか橋碑、瓜郷遺跡、下地一里塚、聖眼寺、の史跡が点在します。
 御油宿を出発して直ぐ、本坂越え追分が有ります。此処は東海道と姫街道の分岐点で秋葉常夜燈、秋葉三尺坊道標、砥鹿神社鳳来寺道標、姫街道道標などが設置されているそうです。姫街道は見附宿に通じる新居関の取り調べが女性に厳しかったらしく、それを嫌い、気質関を通る道を選び、姫街道と呼ばれるようになったとの事ですが、正式名称は本坂道といいます。本坂越え追分の先に御油一里塚が有ります。江戸より七十六里の地点になります。
 御油一里塚から暫く進むと、伊奈一里塚が有ります。江戸か七十五里の一里塚です。近くには、伊奈立場茶屋があり、標柱の後ろには芭蕉と門人加藤鳥巣の句碑が有るとの事です。茶屋では良香散という腹薬が売られ有名だったとの事です。
 伊奈一里塚を過ぎると、菟足神社と近くに子だか橋が有り、子だか橋には生贄の伝説が有り菟足神社の大祭の日に生贄をささげるものだったらしいです。
 子だか橋から暫く行くと、聖眼寺に着きます。子だか橋と聖眼寺の中間に、瓜郷遺跡が有り、弥生時代のものが多く出土しています。聖眼寺の手前にも下地一里塚が有ります。聖眼寺には松葉塚という芭蕉の句碑が有ります。



 聖眼寺を過ぎ、豊川を越えると間もなく吉田宿の入り口西惣門です。
 吉田宿は、江戸から数えると34番目の宿場で東海道が設定された当初からの宿場です。街並みは二十三町三十間とかなり大きな宿場だったようです。又、吉田宿は城下町と湊町の一面も併せ持った宿場でもあります。
 その吉田宿には西惣門、本陣跡、問屋場、東惣門、などが有り、街道沿いには豊橋公園が有り、吉田城も建っています。
 西惣門の手前、湊町神明社の境内に芭蕉の句碑が有り、御油・吉田間には、芭蕉の句が結構ありそうです。
 西惣門の近くに、本陣跡碑が有り、本陣は二軒脇本陣が一軒有りました。本陣跡を過ぎると、問屋場跡の標柱が有るとの事です。そのまま街道を進むと、東の入り口東惣門に到着します。



 吉田宿で、頂かなければいけない物は無いか?調べてみると豊橋カレーうどんと言うものが有りました。ご飯の上にとろろを掛け、その上にカレーうどんを盛り付けうずらの卵を盛り付けた物らしいのですが、かなりボリュームが有りそうです。他に、菜飯田楽というのが有る様で、菊宗という処で本陣跡の直ぐ近くにあるそうです。
 さて、次の宿場は二川宿です。一里二十町(約7.8Km)の道のりになります。



オッサンのDream Journey(桜前線を追いかける 長野・鹿児島・山形)



 3月12日のちちんぷいぷい、「昔の人は偉かった」では、見附宿から浜松宿を歩いていました。番組では、縁結びで有名な東福山西光寺、天竜川、浜松八幡宮、浜松城を紹介していました。浜松城には家康負戦の肖像画も展示されているそうです。そんな中、コロナの影響で学校が休校になっている子供達と絡んでいました。テレビのロケもどうなのかな?と、思っていますがいつまで、ロケも出来るのでしょうか?



 4月9日は、長野の満開予想日です。
 長野には、新大阪09:57のぞみ10:47名古屋11:00中央本線ワイドビューしなの13:53長野に着きます。14時前に長野に着くと夕方まで、十分に桜を観ることが出来ます。



 長野の桜を探したところ、長野駅からバスで10分の所に善通寺が、東側には市内随一の桜の名所、城山(じょうやま)公園が有ります。南北朝時代に築かれたらしい、横山城跡を整備した公園の様です。園内には470本のソメイヨシノが植わっており、隣の善光寺は大納骨堂からは善光寺平が一望でき、お寺全体で650本の桜が植わっているそうです。これは、2ヵ所セットで、お花見をしないといけません。どちらもライトアップされているので、夜桜を選ぶか?温泉を選ぶか?悩みどころです。幸いな事に長野市内にも温泉宿が何軒かあるようです。
 4月10日は移動日に充てたいと思います。11日が鹿児島の満開予想日ですので、10日に鹿児島入りを目指します。
 鹿児島へは、10時前に長野駅を立つと、長野10;53北陸新幹線かがやき11:54大宮12:03―12:44品川12:53―13:08羽田13:45JAL15:35鹿児島空港15:50鹿児島交通バス16:28鹿児島中央16:53―16:58鹿児島に入れます。
 鹿児島では連泊し、12日に山形へ移動したいと考えています。
 鹿児島市内にも温泉宿が有ります。霧島や指宿も選択肢と考えて、選ぶと良いでしょう。うまくいけば、宿の近くに夜桜スポットが有るかもしれません。花見風呂も有かも?



 11日は、1日時間が有ります。となると、鹿児島県で人気1位の桜スポットにも行けます。鹿児島中央から電車で30分程の市来駅からタクシーで7分の所に観音ヶ池市民の森が有ります。此処が鹿児島県人気№1の桜スポットと言う事です。池の周りの桜が一斉に咲いた様は、素晴らしい様です。ライトアップも22時迄されているので何か所かまわって最後に夜桜と言うのも良いかもしれません。
 他にも鹿児島市内には鶴丸城と言う島津藩築城のお城も桜の名所として挙げられています。
 鹿児島で連泊の後、4月12日は山形への移動日です。山形の満開予想日は13日となっています。
 山形へは、鹿児島中央10:49九州新幹線みずほ12:08博多12:20―12:15福岡空港13:00IBEX14:40仙台空港14:50―15:17仙台15:30高速バス16:37山形と言う行程になります。
 山形は1泊とし、翌日花見の後は関西に戻ります。



 鹿児島に続いて人気№1の桜スポットに行こうと思います。鳥帽子山公園と言うのがそれになります。山形駅から電車で30分程の所です。赤湯温泉を見下ろす公園は鳥帽子山千本桜とも言われているそうで、世界的にも珍しいエドヒガン桜の群生地でも有るとの事です。他にソメイヨシノなど1000本の桜が植わっています。赤湯温泉から見上げる桜も素晴らしい様です。温泉から見上げるもよし、温泉を見下ろすのも良し、と言ったところでしょうか?1ヶ所で夜桜と昼桜を楽しむのも有りですね!
 4月13日はゆっくり午前中桜を楽しみ、関西に戻りたいと思います。
 関西へは、山形12:40連絡バス13:20山形空港14:00JAL15:25大阪空港で関西に戻れます。



 秋田、岩手、青森、北海道は其々、満開日の間隔が空きます。満開日に合わせて桜を観に行きたいですね。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 赤坂宿~御油宿)



 赤坂宿から御油宿へ向かいます。僅か一六丁(1.7Km)の道のりです。



 御油宿の、京都側の入り口は、本陣跡だと思われます。
 赤坂宿と御油宿本陣跡の間には、関川神社、御油の松並木、東林寺などの史跡が有ります。
 関川神社は、赤坂宿の、江戸側入り口である東見附跡の直ぐ側にあります。境内には、樹齢800年高さ25mの楠と芭蕉の句碑が有ります。句は「夏の月御油より出でて赤坂や」と読まれています。
 出発して、御油宿を目指すと途中松並木が有ります。この松並木は家康の命で赤坂御位の真ん中に造った事で赤坂宿と御油宿の二つの宿に別れました。この事から、江戸に向かう際は赤坂宿、京に向かう時は御油宿に泊まると言うルールが存在しました。



 松並木を過ぎると街道の左に東林寺が有ります。白蓮院招賢山東林寺は、御油町の中心寺院だったそうでなかなか由緒のあるお寺の様です。墓地には、宿場時代の、遊女たちの墓が並んでいます。間もなく西の入口本宿です。



 御油宿は、江戸から35番目の宿場です。本陣が少ない時でも2軒あり、宿場の大きさより、賑っていた様です。隣の吉田宿や赤坂宿と共に、飯盛女を多く抱えており「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、何のよしみで江戸通い」と言われるほどだったという事です。
 宿場内には、本陣跡、松並木資料館、高札場跡、ベルツ花夫人ゆかりの地、などが有ります。
 本陣跡の碑が有る場所は、鈴木半左衛門が営んでいた本陣だったという事です。



 本陣跡から直ぐの所に、松並木資料館が有ります。国の天然記念物である御油の松並木と御油宿に関する資料、御油の復元模型、広重の浮世絵版画などが展示されています。拝観は無料との事です。
 松並木資料館の先に、高札場跡があります。看板だけの様です。



 高札場跡の斜め向かいに、ベルツ花夫人の看板が有るそうです。ベルツ花夫人(本名、荒井花子 東京生まれ)は、明治政府がドイツから招いた医師ベルツ博士の夫人で、博士の任期終了後ドイツに渡りましたが、博士没後帰国日本で亡くなりました。父親の生家が此処だったという事です。
 御油宿の美味しいものですが、やはり、同じ豊川市内と言う事も有り、赤坂宿と同じように稲荷ものとなるでしょう。
 次の妄想は、吉田宿、二里22丁(12.7Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 藤川宿~赤坂宿)



 今回の妄想は、藤川宿から赤坂宿二里九丁(10.3Km)を目指します。



 実は、藤川宿と赤坂宿の間にはもう一つ、本宿が有ります。赤坂が宿場になる前に宿場だった所だそうです。
 赤坂宿の京側の入り口は、西の見附になります。藤川宿と赤坂宿西の見附の間の史跡は、山中立場、本宿、磯丸歌碑、長沢一里塚、西の見附と有ります。
 藤川宿を出て暫く行くと、名電山中駅を少し過ぎた辺りが山中立場となります。山中立場も本宿並みに賑っていたそうです。歌川広重は、付近の風景を藤川として描いています。



 電車で1区間程度の先に本宿です。丁度駅前に本宿一里塚が有り、ここが、本宿の入り口と考えて良いでしょう。街道には本陣跡や味噌工場など、古い町並みが残っているようです。街道から少し離れると法蔵寺が有ります。法蔵寺は、二村山法蔵寺と言い浄土宗西山深草派のお寺で、本尊は阿弥陀如来です。徳川家の始祖松平親氏が伽藍を建立したことから、松平家の菩提寺となっているそうで、徳川家康が幼少の頃このお寺で読み書きなどを習ったという事で、その遺品も残っているとの事です。他にも法蔵寺には日本武尊東征の故事が伝わる硯水や、新撰組組長近藤勇の首塚などが有ります。



 本宿を出て、名鉄長沢駅の手前に、観音堂跡があり磯丸(みほとけ)歌碑が有ります。長沢駅を過ぎると、長沢一里塚が有ります。その先に、八幡神社が有り、そのあたりに見附跡の標識があるようです。
 江戸から36番目の赤坂宿は、隣の御油宿と合わせ「赤坂御位」と言う一つの宿場町でした。江戸時代家康の命により2つの宿場に分けられたという事です。その為赤坂宿と御油宿の間は一六丁しか離れていません。



 赤坂宿内の街道沿いには、高札場跡、大橋屋、尾崎屋、浄泉寺、問屋場跡などの史跡が有ります。
 高札場跡の近くには、陣屋跡の説明看板もあるそうで、廃藩置県の折には三河県の役所になっていたらしいです。
 大橋屋は1649年創業の旅籠で、広重の、絵のモデルにもなっています。2015年に旅籠としての営業を終了されました。近くの尾崎屋は曲げ物製造卸問屋です。
 浄泉寺は浄土宗のお寺で、境内の観音堂には百観音が安置されているという事です。本堂前のソテツは広重の絵で有名だそうです。
 問屋場跡は説明看板のみですが、向の本陣跡は資料館になっているようです。



 さて、赤坂宿での美味しいものを調べてみると、隣の御油宿に日本3大稲荷の豊川稲荷が有ります。そうなると、やはり稲荷寿司他の稲荷物ですね。稲荷ずしは勿論、いなりバーガーやいなりうどん、などお店によって、様々な物が提供されているようです。赤坂宿か御油宿で食べたいですね!
 次は、御油宿へと向かいます。僅か一六丁(1.7Km)の距離です。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 岡崎宿~藤川宿)



 今回は、岡崎宿から藤川宿一里二五丁(7.3Km)へ妄想を馳せます。



 藤川宿の西の入り口は、西棒鼻と言う事です。
 岡崎宿と西棒鼻の、間に有る史跡等は大平一里塚、大岡越前守陣屋跡、吉良道々標、藤川一里塚、十王堂、藤川西棒鼻跡と続きます。



 岡崎宿を出発して、暫く行くと大岡越前守陣屋跡に着きます。江戸町奉行の大岡越前が一万石の大名になってから明治まで大岡家が西大平藩主として陣屋をおいていました。手前には、大平一里塚が有ります。
 大岡越前守陣屋跡から、かなりの距離を行くと、吉良道と分岐する吉良道々標に差し掛かります。吉良道は三河湾から海産物などが運ばれた重要な街道だったそうです。此処の吉良と言うのは、忠臣蔵の吉良上野介が領主を務めた所です。芝居では悪人ですが、実際は名君だった説も有ります。



 吉良道々標から少し進むと、西の入口、藤川西棒鼻に到着です。藤川宿では、西棒鼻、東棒鼻共に復元されているそうです。大名が通るときは本陣、問屋が出迎え口上を述べていたらしいです。
 その手前には、十王堂が有り、境内には芭蕉の句碑が有るそうで、脇には藤川一里塚も有ります。十王堂は冥土で死者を裁く、閻魔大王を元とする十人の仏様を祀ったお寺です。
 西棒鼻を過ぎると、藤川一里塚です。宿場には、藤川宿脇本陣跡、本陣跡、問屋場跡、高札場跡、などの史跡が有ります。
 脇本陣は藤川宿資料館となっており、当時の歴史を無料で学べる様です。門だけが当時のものだそうです。
 本陣、問屋場、高札場は碑が有るだけの様です。



 藤川宿の美味しいものです。探してみました、藤川宿ではむらさき麦が名産品の様です。道の駅藤川宿でむらさき麦を使ったメニューが提供されているそうです。
 次は、赤坂宿を目指します。距離にして二里九丁(10.3Km)の道のりです。