オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 石薬師宿~四日市宿)



 2月6日のちちんぷいぷい、昔の人は偉かったは金屋宿から日坂宿を歩いていたそうですが、番組を視ることが出来ませんでした。



 今回は、石薬師宿から四日市宿を目指す妄想の旅です。石薬師宿と四日市宿間は約二里二七丁(11.2Km)の道のりです。



 石薬師宿を出て暫く行くと、杖衝坂に差し掛かります。日本武尊が剣を杖にして登ったといわれる坂です。側には芭蕉の句碑が有るそうで、この坂で落馬した時に読んだ季語の無い句だそうです「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」と読まれています。坂の手前には、日本武尊御血塚社があり、三重県の県名の由来となる言葉を残したといわれています。
 少し行くと、内部川には東海道にちなんだポケットパークが有るらしいです。
 内部川を渡り暫く行くと、日永の追分に着きます。随分、伊勢街道との分岐点と言う言葉が出て来ましたが、ここで本当に分岐するのだろうと思います。周辺には伊勢神宮遥拝鳥居や常夜燈もあり、更に追分鳥居の水と言う湧水があるそうで、水質検査もクリアーしているそうです。少し行くと、日永神社が有ります。追分と神社の間には、東海道名残の一本松や日永の一里塚の碑などが有ります。日永の一里塚は江戸日本橋から丁度百里目の一里塚と言う事です。日永の追分辺りには、松並木が続いていたそうです。
 日永神社から少し進むと、古い町並みが残っており、その中には、嘉永年間に建てられた鈴木薬局も有ります。鈴木薬局は300年近く続く旧家で、4代目が長崎で漢方を伝授されたそうです。現在は、製造されていないそうですがいろんな薬が作られていました。



 更に進むと、戦後活躍した小説家丹羽文雄の生家があります。奥には崇顕寺と言うお寺があり丹羽文雄は其処の長男として生まれました。
 丹羽文雄生家から少し行くと、諏訪神社が有ります。どうやらこの辺りから四日市宿の様です。



 四日市宿は四の付く日に市が立っていた事からその名が付いたそうです。古くから港町、宿場町として発展し、東海道、伊勢参りの旅人が集まっていました。宿場内には歌川広重が描いた三滝川、なが餅を販売している笹井屋、東海道四日市資料館、諏訪神社などの史跡や見どころがあります。三滝川の上流には湯の山温泉が有るそうです。
 さて、四日市宿の美味しいものを探してみました。四日市宿でなくても食べる事の出来るものも有りますが、四日市宿でないといけない物がトンテキ丼、店によって違いはありますが豚肩ロースをニンニクと濃いめのソースで焼いた物の丼です。もう一つやはり笹井屋のなが餅は、餡を包み細長く薄く炙ったもので、日永の地名にちなんで永餅と名付けられたそうです。
 次は四日市宿から桑名宿を妄想で旅します。距離は約三里八丁(14.5Km)の旅です。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 土山宿~坂下宿)



 土山宿から坂下宿間は、約二里半あります。



 道の駅土山から出発します。街道をゆくと海道橋に差し掛かります。これは、木造の橋で2005年に竣工された物で当時の板橋を再現しているそうです。車で渡る事は出来ない様なので、車の場合は国道1号に迂回しないといけません。
 国道1号に出て鈴鹿方面に進むと、途中国道から少しそれた所に、蟹塚があります。蟹ヶ坂飴の伝説が残る処です。古戦場にもなっていたようです。
 蟹塚から少し行くと、猪鼻交差点には、あいの土山公園がありますが、調べてみても何も分かりません。この辺りに立場が有ったのではないか?と思います。猪鼻は、休憩場所として栄え、草餅や強飯が名物だったそうです。
 猪鼻から少し行くと、山中一里公園地に着きます。此処は、国道1号、旧東海道、第二名神高速が交差する場所です。程なくして鈴鹿馬子唄の碑が有ります。
 馬子唄の碑から、暫く国道1号を進むと鈴鹿トンネルの手前に万人講常夜燈が立っています。万人講常夜燈は、江戸時代金毘羅参りをする人々が、道中の安全を祈願して建立された物です。トンネル工事の際に現在の場所に移設されたということで、土山側からの峠の入り口の役割を負っているのかもしれません。
 トンネルを出て少し行くと、鈴鹿峠関宿側登りと、石碑があるのではないか?と思うのですが国道1号を反れて、山道を行かなければならない様で、車も使えそうにありません。実際、そこへ行くことが可能かどうかですね!元は、この辺りが坂下宿の中心だったそうです。



 トンネルを抜けると、三重県に入ります。国道とは言え、九折の急なカーブが続きます。鈴鹿峠の坂下側は、八町二十七曲と言われるほど急な曲道の続く険しい道だったと言われます。
 トンネルを通らず旧東海道を行くと、芭蕉の句碑もあるようですが。行ける様な処なのかどうか?分りません、多分、車は行けないのではないでしょうか?
 鈴鹿川に沿って、国道1号を進み、途中国道を反れ、街道に入ります。いよいよ坂下宿です。
 坂下宿は、江戸から見ると鈴鹿峠を控えた宿場町として賑い、鈴鹿馬子唄では「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」と唄われていました。大竹やとは、本陣の1つで、小竹屋は脇本陣だそうで、小竹屋には庶民も止まっていたそうです。



 次回は、関宿を目指します。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 水口宿~土山宿)



 水口宿~土山宿、二里半(12.1km)を進みます。



 水口宿を出て、野洲川沿いを進んで行きます。ほどなく、今郷一里塚があります。このまま街道をゆくと、茅葺家などが見ることも出来るそうです。
 このまま街道を進むと野洲川に架かる屋根のある歌声橋があり、橋を渡って、街道を離れると旧松尾川の渡しがあります。松尾川は江戸時代の野洲川の呼び方だったようです。船で川を渡っていたと言う事は、ここも交通の要所だったのでしょう。
 街道に戻り土山宿を目指すと、大黒屋本陣跡に到着です。大黒屋本陣は甲賀武士の末裔土山氏と土山の豪商大黒屋が勤めていた本陣であると、言う事です。近くには土山家本陣跡もあります。
 土山家本陣跡から少し行くと、来見橋に差し掛かります。此処が土山宿の東の入り口らしいです。しかし、その後も土山一里塚や上島鬼貫の句碑などもあります。
 ならば、西の入り口は?どうやら、大黒屋本陣跡の辺りが西の入り口らしいです。



 土山宿は、平安時代より伊勢参宮道が旧東海道筋を通る為、鈴鹿峠を越えなければならず、難所を控える宿駅として発展しました。鎌倉時代東西の交通が更に重要視され、武士、商人、庶民の通行も盛んになりました。更に、土山宿は雨の多い所でもあり、鈴鹿馬子唄では、「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と唄われています。坂は坂下宿、鈴鹿は鈴鹿峠、土山は土山宿で、坂下宿は晴でも、鈴鹿峠で曇り、土山宿では雨が降っているという意味です。
 土山宿での、美味しいものを調べてみました。道の駅あいの土山の抹茶ソフトの盛り放題というのが有りました、一日100個限定らしいです。次に日本一たい焼き国道1号沿いに有り、行列のお店だそうです。そして、蟹ヶ坂飴、麦芽水飴を煮詰め丸く成型した飴です、この飴の発祥には蟹の言い伝えが在ります。この飴は土山宿でしか手に入るのでは?



 次は鈴鹿越えの坂下宿を目指します。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 三条大橋~大津宿)



 さて、妄想の中で三条大橋を出発します。



 出発前に三条大橋を出発したことを証明しないといけません。三条大橋の西詰には弥次喜多像が有り、これをカメラに納めると証明になるでしょう。
 三条大橋は東海道五十三次の起点で、鴨川に架かり秀吉の時代に本格的な橋が掛けられたそうです。
 三条大橋から大津宿を目指すには、三条通り(府道143)から、国道1号に合流し琵琶湖を目指します。
 道中には、峠の改修にあたった「木食上人」が道路管理と、休憩を兼ねた亀梅香庵(亀水不動)跡、や旧道入り口、が在ります。更に、1号線を進むと三井寺道標、髭茶屋追分の道標が有ります。髭茶屋追分は東海道五十七次と合流している場所です。
 滋賀県に入ると最初に差し掛かるのが大阪の関跡、ここは、東海道と中山道が通る交通の要となる関です。百人一首では「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 大阪の関」と読まれています。
 途中、国道1号から県道558に入り走ると大津本陣跡に差し掛かります。本陣跡近くには、蝉丸神社の上社、下社が在り、先の歌の読み手蝉丸を祀っています。
 いよいよ大津宿です。その手前に、大津事件碑があります、1891年来日中のロシア皇太子が警備の巡査に斬りつけられる事件があった場所です。この事件から三権分立の意識を広めた事件であったそうです。
 そして、大津宿に到着です。



 大津宿は、天智天皇が大津京を開き、壬申の乱の舞台となった土地ですが、琵琶湖湖岸に開けた商業地として発展した土地です。更に東海道、中山道、北陸道の宿駅でもあります。
歌川広重大津宿
 三条大橋と大津宿の間は、三里(12km)の距離があります。観光しながら移動するとして、どのくらいの時間が掛かるのか見当が付きません。車で移動を考えていますが、そうなると、駐車場所があるのか?それとも徒歩で移動するのか?路線バスを使って移動すべきなのか?悩むところです。
 取り敢えずは、一宿場ずつ紹介をして、実際にこの旅を実行するときに考えたいと思います。