オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 鞠子宿~府中宿)



 今回は府中宿へ向かいます。距離は一里半(約6.3Km)です。



 府中宿、西の入り口ですが、札ノ辻址辺りかと考えます。安倍川の会所跡とも考えましたが、安倍川橋を渡ってすぐな為札ノ辻を入り口と考えます。
 鞠子宿と府中宿の間には、安倍川橋、石部屋、安倍川義夫の碑、弥勒公園、札ノ辻址などの史跡が有ります。



 鞠子宿を出て、暫く行くと、安倍川に突き当たります。安倍川は大井川と同じように、人夫によって皮を渡る場所で、賃銭は川の深さで決められていたそうです。安倍川橋は大正時代、東海道に架けられました。
 安倍川橋を渡るとすぐに石部屋が有ります。安倍川餅と言うのはここの安倍川から来ているとの事です。この餅が家康に献上されたところ甚く気に入り、名付けたとされます。石部屋の側には安倍川義夫の碑が立っており、安倍川を自力で渡った紀州の漁夫が大金の入った財布を落とし、それを拾った人夫に礼をしようとしたが受け取らなかったそうで、後日奉行から報奨金が贈られたという言い伝えが残っています。
 近くには弥勒公園が有り、安倍川の会所跡の説明看板や由比正雪の墓碑などが有るとの事です。
 弥勒公園から暫く行くと、札ノ辻址に到着です。此処が西の入り口になる様です。



 府中宿は江戸から19番目の宿場であると同時に、徳川家康のお膝元で駿府城の城下町で、静岡市の中心部に当たります。明治時代に府中は不忠に通ずるとされ静岡に改名されたそうです。
 府中宿には、駿府城、西郷・山岡会見碑、上伝馬町本陣脇本陣跡、下伝馬町本陣脇跡、華陽院、が有ります。



 府中宿に入って直ぐに駿府城です。安土桃山時代駿河国を支配した徳川家康により築城され、江戸時代には駿府藩や駿府城代置かれていたとの事です。別名として、府中城、静岡城とも呼ばれていました。現代は都市公園「駿府城公園」として整備されています。
 駿府城の先には、西郷・山岡会見碑が立っています。碑だけですが、ここは、1868年西郷隆盛と山岡鉄舟が江戸城開城の下交渉を行った場所だそうです。
 会見碑を過ぎると上下伝馬町本陣脇本陣跡に差し掛かります。碑のみですが、この辺りは宿場だけでなく静岡市の中心地です。
 本陣跡を少し行くと、華陽院(けよういん)が有ります。家康の祖母の菩提寺で京都の知恩院の末寺です。元は真言宗知源院という名前でしたが、家康の祖母の法名が寺の名前になったそうです。境内には家康の五女市姫の墓も有るとの事です。華陽院の参道の入り口には久能山東照宮への分岐道標も立っています。
 華陽院を後にして、進むと国道1号と街道の交差点に差し掛かります。交差点には府中宿跡の碑か看板が有るとは思うのですが、妄想で旅している身では知る由も有りません。この辺りが東の入り口の様です。



 府中宿の美味いもんは、先ずは安倍川餅ですネ!石部屋でも買うことは出来ますが、他にも販売しているお店がある様です。もう一つが、静岡おでんです。肉系の出汁と濃口醬油で煮込み、ダシ粉や青のりをかけて食べるそうです。有名店の殆どが、府中宿のある葵区に集中しています。
 府中宿を後にすると、江尻宿になります。二里二十九丁(約11.7Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 岡部宿~鞠子宿)



 鞠子宿を目指し、一里二十九丁(約8.5Km)の道のりを行きます。



 鞠子宿、西の入り口となると、丸子川に架かる丸子橋の手前にある高札場辺りが西の入り口と思われます。
 岡部宿と鞠子宿の間には、西行笠懸松、十石坂観音堂、坂下地蔵堂、蔦の細道分岐点、宇津ノ谷峠、明治のトンネル、宇津ノ谷集落、高札場などの史跡が有ります。



 岡部宿を出て、直ぐ岡部川を渡った所に、西行笠懸松の説明看板が有ります。鎌倉時代初期の僧侶西行が、故あって破門した弟子の死を悼んだ場所だという事です。
 その先に、十石坂観音堂が有ります。江戸時代末期の建物の様で、入母屋造瓦葺建築で細かい彫刻が施されているそうです。2体の厨子が安置されているとの事で、1体は江戸中期、1体は江戸後期の作だそうです。
 暫く進むと、坂下地蔵堂に差し掛かります。建立年代などは不明ですが、元禄年間に再建されたらしく、霊験あらたかと信仰されそれを示す「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」という2つの伝説が残っているとの事です。更に堂内には地蔵菩薩が安置され宇津ノ谷峠を越える旅人の安全を祈願していました。
 地蔵堂を過ぎると、蔦の細道と街道が分岐しています。平安時代から鎌倉時代に掛けて利用された道ですが、鎌倉幕府は部隊の行進が出来ない道を廃止し、宇津ノ谷峠に新しい道を作ったという事です。江戸時代には人や物資の往来が頻繁になったそうです。宇津ノ谷峠は伊勢物語や海道記などからも難所で有る事が伺えます。峠の頂上付近からは宇津ノ谷集落を一望できる場所があります。
 峠を降りてゆくと、集落の手前に明治のトンネルへ行く道が有ります。街道からは少し距離がある様ですが、峠が通行困難な為、明治時代に掘られたもので登録有形文化財だそうです。
 峠を降りると、宇津ノ谷集落です。岡部宿と鞠子宿の間に位置し往来する旅人が休憩をした所です。集落内には御羽織屋や慶龍寺もあります。
 御羽織屋には豊臣秀吉の陣羽織などが飾られ公開もされています。慶龍寺では、室町時代から数珠型の魔除け団子が伝わっており、現在でも地蔵盆の頃の縁日で配られるそうです。
 宇津ノ谷集落から暫く進んで、ようやく丸子橋に到着です。橋の手前に高札場が復元されているとの事で、橋を渡ると鞠子宿に入ります。



 鞠子宿は、江戸から20番目の宿場で丸子と書く事もあります。東海道で最も小さい宿場ですが、関ヶ原の翌年には宿場となっています。鞠子宿と言えば歌川広重が描いた浮世絵の丁子屋が有名で、とろろ汁を食べさせる店との事で、現在も営業をされているそうです。
 鞠子宿には、丁子屋、お七里役所、鞠子宿本陣、脇本陣、鞠子一里塚の史跡が有ります。



 丸子橋を渡ると直ぐ丁子屋です。慶長年間に創業され、400年以上とろろを提供しているそうで、当初はお茶屋だったとの事です。
 丁子屋の先には、お七里役所が有ります。家康の第十子の徳川頼宣、が家康の死後紀州に国替えになった折幕府の動きを警戒する諜報機関をおいたのがお七里役所だそうです。
 続いて、鞠子宿本陣、脇本陣ですが、お七里役所を含めて碑のみとなっています。脇本陣は、明治天皇が休憩をした場所でもあります。
 本陣、脇本陣を過ぎると、こちらも碑のみですが鞠子一里塚に差し掛かります。此処が鞠子宿東の入り口になる様です。



 鞠子宿で頂かなければならない物は、やはり丁子屋のとろろ汁でしょう!かなり人気がある様ですので、とろろ汁だけで一日を費やしそうです。後、慶龍寺の十団子ですがお羽織屋や丁子屋などでも販売しているそうです。
 次回は、鞠子宿から府中宿、一里半(約6.3Km)へ向かいます。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 藤枝宿~岡部宿)



 今回は岡部宿を目指します。一里二十九丁(約5.5Km)の道のりです。



 岡部宿、西の入り口ですが市役所の岡部支所の近くにある桝形跡辺りかと思われます。
 藤枝宿と岡部宿の間には、須賀神社、鬼島一里塚、横内橋、慈眼寺、岡部の松並木、五智如来、などが有ります。



 藤枝宿を出発し少し行くと、須賀神社です。境内には、樹齢500年とも言われる大楠が有ります。根回り15.2ⅿ樹高23.7ⅿと言う大きさで県の天然記念物との事です。
 須賀神社を過ぎて行くと、鬼島一里塚に差し掛かります。民家の前に標識だけがある様です。
 その先、少し行くと横内橋が有ります。横内橋は朝比奈川に架かる橋ですが、この地域は文禄年間豊臣家家臣池田孫次郎輝利が村人に河川改修を指導し白髭神社を祀り開村した地域だそうです。
 その先には、慈眼寺が有ります。西了山 慈眼寺は慶長年間、横内村が開村したのを機に、先祖の菩提供養の為に新寺を建立する機運が高まり開創された寺院だそうです。
 慈眼寺から少し行くと、松並木に差し掛かります。岡部の松並木と言われ、大事にされているとの事です。
 その先に、五智如来が有ります。元は、寛永年間に開山したといわれる誓願寺に安置されていたそうですが、それを現在の場所に移し,公園として整備されています。五智如来像は田中城主が誓願寺に病気平癒の祈願をしたところ成就し、そのお礼として寄進されたとの事です。五智如来は5体で1組ですが、もう1組明治の中頃に作られています。
 直ぐに桝形跡に到着です。此処が岡部宿の入り口にあたります。



 江戸から21番目の岡部宿は、五十三次が整備されて、一年遅れで設立された規模の小さな宿場でしたが、寛永年間に参勤が制度化されたことにより宿場業務が増大し隣接する内谷村新町が加宿されました。
 岡部宿には、問屋場跡、姿見の橋、高札場跡、岡部宿内野本陣跡、旅籠柏屋などの史跡が有ります。



 宿場に入り進むと、街道には問屋場跡、高札場跡、本陣跡などの碑が点在しています。
 問屋場跡と高札場跡の間に有るのが、姿見の橋です。この橋は小野小町が景色を眺めていて、下を見ると水に映った自分の顔に老いの身を嘆いたという橋だそうです。確か「丹後LEGEND of sevens Princess」では、丹後で亡くなったはずですが、小町伝説は至る処に有ります。こちらの伝説はどういった言い伝えが有るのでしょうか?
 本陣跡を過ぎると、旅籠柏屋になります。柏屋は岡部宿を代表する旅籠でした。1998年に国の登録有形文化財に登録されたとの事で現在、建設当時の姿が再現され歴史資料館となっているそうです。この先岡部川辺りが東の入り口らしいです。



 さて、岡部宿での御馳走を探したのですが、ご当地グルメとなるものは見つかりませんでした。
 次は、鞠子宿を目指します。距離にして一里二十九丁(約8.5Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 島田宿~藤枝宿)



 島田宿から藤枝宿二里八丁(約10.6Km)を目指します。



 藤枝宿の、西の入り口は、瀬戸川に架かる勝草橋辺りが入り口の様です。
 島田宿と藤枝宿の間には、栃山橋、上青島一里塚、染飯茶屋蹟碑、千貫堤、東海道追分、六地蔵堂、田中藩領傍示石、志田一里塚、などの史跡が有ります。



 島田宿を出て、少しすると、栃山橋を渡ります。此処から藤枝市に入ります。旧道の松並木を進んで行くと、上青島一里塚に差し掛かります。江戸から51番目の一里塚ですが碑のみとなっています。
 一里塚の先には、染飯茶屋蹟が有ります。染飯というのは、くちなしで黄色く染めたおこわで、瀬戸(藤枝)の名物として旅人に提供されていたそうです。現在染飯を頂く事は出来るのでしょうか?
 染飯茶屋の側には千貫堤が有り、寛永年間大井川の氾濫から守るための大堤防です。その費用が千貫だったという事で、その名が付いたという事です。
 千貫堤の先は、東海道追分です。大井川の氾濫はこの辺り迄被害が及んでいた様で、古東海道は北側の尾根伝いに来ていた様です。
 追分を過ぎると、六地蔵堂があります。六地蔵堂がある鏡が池に龍が住んでおり旅人を悩ませていたのを鬼岩寺二世静照上人により退治され、鏡池堂が立てられ六地蔵が祀られたという事です。
 六地蔵堂から少し進むと田中藩領傍示石に差し掛かります。染飯茶屋の手前にも田中藩領傍示石が有り、この辺りは田中藩領と掛川藩領が入り組む地域で、藩鏡に境界を示す傍石が建てられたという事です。
 田中藩領傍示石を過ぎて進むと、志田一里塚です、すぐそばに、勝草橋が架かっています。勝草橋を渡ると藤枝宿です。



 江戸から22番目の宿場である藤枝宿は、城下町としても、塩の産地であった田沼街道分岐点としても、更に商業地としても栄えた宿場です。又、藤枝ダルマや桐ダンスなどの伝統工芸も有名との事です。
 藤枝宿には、正定寺、問屋場跡、上本陣、下本陣、大慶寺、蓮生寺、白子由来記、東海道藤枝宿左車町、田中城、などが有ります。



 勝草橋を渡ると、正定寺が有ります。境内には、享保年間、当時の田中城城主が、報恩謝徳として寄進したという「本願の松」が植えられています。傘型の姿が特徴的で延命の松とも言われているそうで、市の天然記念物との事です。
 正定寺を過ぎると問屋場跡、上本陣、下本陣が続きますが、碑ではなく歩道にタイルが埋め込まれているそうです。
 その先を行くと大慶寺に差し掛かります。大慶寺は日蓮宗の寺院で山号は延妙山大慶寺となります。建長年間比叡山に遊学していた日蓮聖人が藤枝に立ち寄った時、若き日蓮の説法に教化された夫婦が持仏堂として建立した法華堂が起源だそうで、その後田中城の祈願所となり栄えたとの事です。境内には、当時の日蓮聖人が自ら植えたと伝わる黒松が有り県の天然記念物だそうです。
 大慶寺の先は蓮生寺です。蓮生寺は浄土真宗大谷派の寺院で熊谷山蓮生寺と言い建久年間蓮正(熊谷直実)開山となり創建されたという言い伝えです。享保年間駿河国田中藩主となった本多氏の菩提寺となったそうです。境内には、市指定の天然記念物イブキが植えられているとの事です。
 蓮生寺の近くに、白木由来記の碑が有るとの事です。本能寺の変の時、徳川家康を助けた伊勢国白子の小川孫三が家康の恩賞を受けこの地に移り住んだという事です。
 その先に東海道藤枝宿左車町が有ります。鎌倉6代将軍源宗尊が京から鎌倉に下る時乗っていた車の左車輪が折れてここに埋めた事から着いた地名だそうです。江戸時代はこの辺りが東木戸だった様で東の入り口と言う事です。
 そこから街道を1Km程南下すると、田中城に着きます。田中城の歴代城主の殆どが幕閣入りを果たしており、田中藩主、城主になる事は幕政に参加する登竜門であった様で、天文年間今川氏により築城され、天正年間徳川の攻撃により開城し慶長年間徳川の酒井忠利が入城したとの事です。城は、平城で天守閣は無かった様です。現在周辺は田中城下屋敷として整備されています。



 さて、藤枝宿で頂かなければいけない物は?と言うと、当然、朝ラーですね!ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)や、所さんお届けモノです!でも紹介されています。元は茶業関係者の食文化で、収穫や取引が早朝から行われるため早朝から来客が多く有るため朝ラーの文化が始まったそうです。本来の中華そばの温と、甘めのスープにわさび・生姜を添えられた冷の2種類を1セットで頂くものです。もう一つ気になっているのが、染飯ですが、こちらは藤枝駅前のお弁当屋さんで販売されているとの事です。
 この後、岡部宿へ一里二十九丁(約5.5Km)の道のりを行きます。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 金谷宿~島田宿)



 金谷宿から大井川を越えて島田宿へ入ります。1里(約4.5Km)の道のりです。



 島田宿、西の入り口ですが、川越遺跡町並が始まる川会所辺りかと思われます。
 金谷宿と島田宿の間には、大井橋、朝顔の松公園、川会所、が有ります。



 金谷宿を出て、大井川沿いを少し進むと、大井橋を渡ることになります。「箱根八里は馬でも越すが越すにこされぬ大井川」と歌われた川で東海道最大の難所です。江戸時代防衛上の理由で橋を架けるのを許さなかったそうです。
 大井川を越えると、駿河国に入ります。橋を渡り街道に戻るため、県道342に入ります。
 街道に戻ると、朝顔の松公園が有ります。浄瑠璃や歌舞伎伝説の松が生えているとの事で、公園に整備されている様です。朝顔の松の由来などは、いろんなサイトで紹介されています。向かいには、島田市博物館もあり、大井川や島田宿の様子が展示されているそうです。
 その先に川会所が復元されています。この建物は安政年間に建てられたもので、明治以降に一時移転されましたが、その後元の位置に復元されたとの事です。川越業務の管理運営を行っていた処で、国の指定史跡だそうです。



 いよいよ島田宿です。江戸から23番目の宿場で、大井川の左岸に有るため、右岸に有る金谷宿同様、大井川の増水で川越が禁止されると大そうな賑わいを見せたという事です。
 その島田宿には、川越遺跡町並み、関川庵、大井神社、問屋場跡、刀匠顕彰碑、島田一里塚、



 川会から川越遺跡町並に入ります。遺跡は1970年に復元されたものです。普通の民家と混同している様ですが昔の雰囲気が現れているそうです。
 途中、関川庵の標柱が有り街道を逸れると、浄瑠璃や歌舞伎で有名な「八百屋お七」の、お七の恋人の墓が有るそうです。
 関川庵から暫く行くと、大井神社鳥居が有り、その奥は大井神社です。創建不詳ですが貞観年間には存在していた様です。祭神は彌都波能売神、波邇夜須比売神、天照大神という事で、安産や女性、子供の神様として信仰されているそうで、神社の帯祭りは日本三大奇祭の一つとの事です。
 大井神社の先には問屋場跡と刀匠顕彰碑が有ります。共に碑だけですがこの辺りは室町時代から多くの刀工が軒を連ね今川、武田、徳川氏から評価されていたとの事です。
 問屋場跡を過ぎると、島田一里塚です碑のみですが、先には島田宿の道標が有りこの辺りが江戸からの入り口になる様です。



 島田宿の美味しい物ですが、和菓子になります。小饅頭というお饅頭で皮に特徴があるそうです。米麴を使った皮でお酒に似た香りでふっくらしているそうです。臭いはお酒でも、アルコールは無くなっているそうです。
 この後、藤枝宿2里八丁(約10.6Km)を目指します。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 日坂宿~金谷宿)



 遠江国最後の宿場、金谷宿へ向かいます一里二十四丁(約8.1Km)の距離です。



 金谷宿、西の入り口は金谷一里塚跡辺りになる様です。
 日坂宿と金谷宿の間には二の曲がり、夜泣き石跡、涼み松、鎧塚、佐夜鹿一里塚跡、扇屋、久延寺、菊川の里、石畳の菊川坂、諏訪原城址、金屋石畳、すべらず地蔵、鶏頭塚・庚申堂、石畳茶屋、旧東海道石畳道入り口、金谷一里塚跡など多くの史跡が有ります。



 日坂宿を出て、国道1号を横切ると急な登坂に差し掛かります。二の曲がりと言われる難所で小夜の中山峠を越える旅人を悩ませていました。この辺りは沓掛という土地で、峠に差し掛かったところで沓を履き替え古い沓を水に掛け旅の安全を祈願したそうです。
 途中、夜泣き石跡があります。夜泣き石自体は現在別の場所にある様です。すぐ手前には歌川広重の絵碑が有るとの事で旅人と夜泣き石を描いているそうです。
 夜泣き石跡から少し行くと、涼み松に到着です。旅人に木陰を提供してくれる大きな松が有ったという事で、これを歌った芭蕉の句碑もあります。向かいには、藤原良政の娘小石姫が自害し、ここに葬られたそうで、小石姫が身重であった事から妊婦の墓と言われています。
 涼み松のから少し進むと鎧塚が有ります。建武年間北条時行の一族名越太郎邦時が中先代の乱で京に上る途中、足利一族の今川頼国と戦い命を落とした場所で頼国によって葬られたそうです。
 鎧塚を過ぎると佐夜鹿一里塚です。江戸から54番目の一里塚で、当時は両脇に有ったそうで、道幅も三間有ったとの事です。
 その先には、子育て飴で知られる扇屋が有ります。この峠で妊婦が山賊に殺され、その時に生まれた子を水飴で育てたという伝説が有り、その水飴を売っているそうです。昔は同じような店が複数有ったようですが今はここだけらしいです。
 扇屋の直ぐ近くには久延寺が、山之内一豊が関ヶ原に向かう家康を接待した場所で、茶亭跡もあります。夜泣き石もここにあるそうです。どうも夜泣き石伝説の妊婦が小石姫ではないかと思わせるような感じです。それと、怪談噺の飴屋の幽霊とは関係が有るのでしょうか?
 久延寺の辺りが、峠の頂上らしいです。



 中山峠を降りると、菊川の里です旧東海道の宿場でしたが、江戸時代間の宿になりました。間の宿は宿場間に発展した休憩用の町場で宿は無かったそうです。その手前には、菊川の里会館があります。
 菊川の里を過ぎると直ぐに、登坂になる様です。石畳の菊川坂と言われる坂は江戸時代後期のものらしく現在は長さ161m、最大幅4.3ⅿが残っているとの事です。
 坂を登り切り少し行くと、諏訪原城址へ行く標識に差し掛かります。諏訪原城は天正年間、武田勝頼の命で築城された山城で建築物は残っていませんが堀、曲輪、馬出などの遺構が残っていて国の指定文化財となっているそうです。
 諏訪原城址への標識を過ぎると、下り坂です。金屋石畳になります。430ⅿ程の石畳ですが町民がボランティアとして石を運び復元されたとの事です。途中に有るのが、滑らず地蔵、鶏頭塚・庚申堂です。
 すべらず地蔵は六角地蔵尊とも言われ、こちらが正式名称の様です。すべらず地蔵は此処の石畳が滑らない事から来ているそうで、受験生に御利益が有るとの事です。
 鶏頭塚は俳人六々庵巴静の「曙も夕ぐれもなしけ鶏頭華」と呼んだ句碑が有る事から鶏頭塚と呼ばれたそうです。鶏頭塚の裏に庚申堂が有り、日本左衛門はここで夜働きの着替えをしたとの事です。
 石畳を下り切る手前に、石畳茶屋があります。茶屋の奥は展示室になっており、広間は休憩所で軽食やお茶が飲める様です。
 石畳を下ると旧東海道石畳道入り口になります。下ってくると出口ですが、江戸側から見ると入り口です。
 石畳が終わっても坂道は続く様です。その坂を下り踏切を渡ると、金谷一里塚跡で、いよいよ、金谷宿に入ります。



 金谷宿は遠江国最東端の宿場で、大井川が増水などで渡れなくなり足止めされると大そうにぎわったそうで、本陣が3軒有ったそうで1軒は書店として残っているとの事です。
 金谷宿には、柏屋本陣、佐塚本陣、八軒屋橋があります。



 金谷一里塚跡から進むと、柏屋本陣に差し掛かります。柵に囲まれた植え込みに表示が有るとの事です。
 その先に、佐塚書店が有りここが佐塚本陣だったそうです。後の1軒は今のところ不明です。少し行くと八軒屋橋でここが東の入り口の様です。



 さて、日坂宿・金谷宿間の美味しい物ですが、一つは当然扇屋の子育て飴が有ります。もち米と大麦を原料にした水飴で口に入れると、優しい甘みが広がるそうです。
 もう一つが、金谷宿の郷土料理で菜飯田楽です。昆布の出汁で焚いたご飯に大根の葉を振りかけた物に豆腐の田楽を添えたものです。
 次は、金谷宿から島田宿へ入ります。距離は、一里(約4.5Km)です。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 掛川宿~日坂宿)



 今回は掛川宿から日坂宿へ向かいます。一里十九丁(約6.9Km)の道のりです。



 日坂宿の、西の入り口は西側の下木戸高札場であろうと思われます。
 掛川宿と日坂宿の間には、葛川一里塚、伊達方一里塚、事任八幡宮、などがあります。



 掛川宿、東の七曲りを出て少し行くと葛川一里塚と馬喰橋に差し掛かります。馬喰橋は橋の親柱が馬の顔だから馬喰橋だそうですが、東海道膝栗毛の弥次喜多が座頭をからかい川に落とされた場所らしいです。
 馬喰橋を渡り4Km程進むと伊達方一里塚です。こちらの一里塚は史跡として整備されてはいるそうです。
 伊達方一里塚から暫く行くと、事任八幡宮があります。ことのまま八幡宮とよみます。この神社は807年坂上田村麻呂が東征の際、再興したという事で、武家社会になると八幡宮信仰が栄え、源頼義が石清水を勧請し事任神社が八幡宮を併称するようになったとの事です。昔から「必ず願いごとのままに叶う」神社として朝廷や全国から崇敬され、枕草子にも記されているそうです。境内には樹齢千年と言われる杉の巨木が立っています。
 事任八幡宮から少し進むと下木戸高札場です。此処が日坂宿西の入り口になります。
 日坂宿は、江戸から25番目の宿場で、坂下宿、由比宿、に次いで3番目に小さい宿場との事です。東海道の3代難所の一つ小夜の中山の西麓に位置し、入坂、西坂、新坂などと記され日坂宿と読まれたりもしていた様です。



 その、日坂宿には、下木戸高札場、旅籠川阪屋、脇本陣黒田屋、問屋場跡、本陣扇屋,などが有ります。東の入り口は県道415号を横切る交差点辺りになる様です。



 下木戸高札場は江戸時代宿場の治安を守るため木戸が設けられていましたが、規模の小さい日坂宿では川が門の役割を果たしていたそうで、高札場と隣接していた為下木戸の高札場とも言われていたそうです。
 この先、旅籠川阪屋、脇本陣黒田屋、問屋場跡、本陣扇屋の史跡が続きます。
 旅籠川阪屋は、脇本陣などの肩書はありませんが身分の高い武家や、公家も宿泊した格の高い旅籠だった様で現在は資料館になっているそうです。
 日坂宿で最後の脇本陣を務めたのが、黒田屋との事です。残念ながら脇本陣黒田屋、問屋場跡、本陣扇屋は看板のみの掲示となっている様です。



 日坂宿で頂かなければいけない物は無いか?探した所、掛川宿と日坂宿の間掛川寄りに約二百年茶店を営んでおられる所が有り、そこの名物が振袖餅というお餅だそうです。着物の振袖の形に似ていた事から振袖餅と言ったそうです。
 この後、遠江国最後の宿場金谷宿を目指します。距離は一里二十四丁(約8.1Km)となります。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 袋井宿~掛川宿)



 袋井宿を出て、掛川宿を目指します。道のりは二里十六(約10.7Km)で、東海道も後半に入ります。



 さて、掛川宿西の入り口ですが、どうやら逆川の支流倉真川に掛かる大池橋ではないか?と考えます。
 袋井宿と掛川宿の間には、七ツ森神社、九津部一里塚、富士浅間神社大鳥居、袋井松並木、花茣蓙公園、岡津の松並木、仲道寺、善光寺、大池一里塚、秋葉山神社遙拝所などの史跡が有ります。



 袋井宿を出発して暫く行くと、七ツ森神社が有ります。桓武天皇の頃、日坂宿に出没し悪さをする怪鳥を退治するため朝廷から7人の武士が派遣されましたが、返り討ちに合い7人とも命を落としました。その墓が此処にあるそうです。
 更に暫く進むと九津部一里塚に差し掛かります。袋井東小学校の校庭に有り、1973年創立百周年記念で復元されたという事です。七ツ森神社と九津部一里塚の間には油山寺、法多山道、八幡社、村松・宇刈道などへの道標があります。
 九津部一里塚の先には富士浅間神社の大鳥居が有り、神社は鳥居の先800ⅿほどの所に有るそうで国の重要文化財だそうです。又、富士山の周辺には浅間神社が何ヶ所か有り何れも富士山を御神体としています。
 大鳥居を過ぎると、袋井の松並木が有ります。松と桜に囲まれた道だそうです。
 松並木が終わり少し行くと、花茣蓙公園です。江戸時代は旅人相手の休憩所だった様で花茣蓙が有名との事です。此処は立場が有った所で、奈良時代は郡役所もあり交通の要所でも有ったそうです。
 花茣蓙公園を出て、同新橋を過ぎると、岡津の松並木が始まります。旧東海道の松ですが、近年松喰虫の被害が目立っているそうです。
 松並木が終わると、仲道寺と善光寺が有ります。仲道寺は江戸から京迄を測量したところこの寺が丁度真ん中であったから仲道寺となったというまことしやかな?話です。
 善光寺の本尊阿弥陀仏は坂上田村麻呂の守り本尊だったとの事です。
 暫く行くと連祐寺というお寺の前に江戸から59番目の大池一里塚が有るそうです。
 一里塚を過ぎて、西掛川駅の先に秋葉山神社遙拝所が有ります。東海道には秋葉常夜燈、秋葉山常夜燈などが数多く点在しています。その火防の神様の秋葉山へ通じる道の入り口だそうです。遥拝所から直ぐに大池橋です。此処から掛川宿になります。



 掛川宿は、山之内一豊が改修し棲んだ掛川城下町でもある江戸から二十六番目の宿場です。又駿河湾から秋葉山を経て信濃国へ通じる塩の道が交差する宿場でもあり江戸時代以降は秋葉街道と呼ばれたそうです。
 掛川宿には十九首塚、円万寺、掛川城、七曲、塩の道道標、などが有ります。



 掛川宿に入り少し行くと、十九首塚が有ります。現在公園に整備されているようですが、天慶の乱で藤原秀郷に滅ぼされた平将門と18人の武将の首が埋葬されているとの事です。
 十九首塚を過ぎると、円万寺に差し掛かります。元は掛川城内に有った寺院と言う事ですが、山之内一豊による城の改修の折に現在の場所に移されました。山門は蕗の門と言い掛川城廃城の時円万寺が買い受け山門としたそうです。
 その先、掛川城へと向かう道が有ります。城に向かって進むと、逆川に掛かる緑橋の先に城が見えるようです。室町時代今川氏が遠江進出の為家臣に命じて築城させたのが始まりという事です。戦国時代には山之内一豊が10年に渡り在城し、天守閣や大手門を建設し、城下の整備にも注力したそうです。
 掛川城から街道に戻り進むと七曲りに突入です。この辺りが宿場の中心の様ですが本陣や脇本陣など他の宿場に有るものが在りません。七曲りに入り直ぐに塩の道道標に差し掛かります。秋葉山神社から信濃へ行く道になります。江戸時代は七曲りに木戸や番屋が置かれていた様です。東側の七曲り表示迄行くと東の入り口になります。



 掛川宿で美味しいものは?決まっています。ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)で紹介されていたのですが、掛川本陣通りの屋台街、掛川宿で無いと、という訳ではありませんが此れはこれでそそられます。掛川で宿泊して、本陣通りで一杯しか頭にはありません。
 次は、掛川宿から日坂宿に向かいます。一里十九丁(約6.9Km)の道のりになります。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 見付宿~袋井宿)



 4月3日のちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)では、浜松宿から舞阪宿へ向かっていました。番組では龍雲寺でダウン症の書家が書いた世界一大きな般若心経とスズキ自動車を紹介していました。
 見付宿から袋井宿を目指します。一里半(約6.9Km)の道のりです。



 袋井宿、西の入り口は御幸橋辺りの様です。インターネットでは袋井宿出口と表記されている場合も有ったので、御幸橋を西の入り口とします。
 見付宿と袋井宿の間には、阿多古山一里塚、旧東海道入り口、遠州鈴ヶ森跡、大日堂、鎌倉の古道道標、江戸の古道道標、明治の道道標、大正の道道標、木原畷古戦場、木原一里塚、旧澤野医院などの史跡が有ります。



 見付宿を出発すると、直ぐに阿多古山一里塚が道の両脇に有ります。一里塚の裏には、阿多古神社が有りますもう少し手前に登り口がある様です。
 少し行くと、旧東海道入り口になります。県道413号を逸れる様に街道が続きます。その先には遠州鈴ヶ森跡が有ります。江戸時代の処刑場だったとの事で、供養塔も建っており、日本左衛門の首が晒された所らしいです。
 暫く行くと、鎌倉の古道道標、江戸の古道道標、明治の道道標、大正の道道標が続いています。この辺りは三ケ野七つ道と言われ、鎌倉、江戸、明治、大正、東海道、昭和の道、平成の道と7つの道が集中しています。東海道を進む訳ですが、途中街道が途切れ、鎌倉、江戸、明治、大正の何れかを通るか、手前で迂回するかと言う事になる様です。どうやらメイン道路は明治の道の様です。途中大日堂へ行く道が有り、ここは、上洛を目指す武田信玄を迎え撃つ家康軍の本田平八郎が木に登り見張りをした所だそうです。高台にあるため太田川の向こうが一望出来るとの事です。
 明治の道を進み、東海道に戻り少し行くと、太田川です。渡ると、袋井市に入ります。
 暫く進むと、袋井市の指定文化財、旧澤野医院が有ります。幕末から昭和初期の間に建てられた4棟の建物で、構成されています。東海道面した医療建築物として貴重な存在らしいです。その先に袋井宿西の入り口御幸橋です。
 袋井市に入り少し行くと、木原畷古戦場に差し掛かります。この辺りで陣を張った武田信玄軍と家康軍の兵が小競り合いを繰り返した場所と言う事で、三方が原合戦に発展してゆきました。近くには郷社許禰神社が有り、家康が腰を掛けたといわれる石があるそうです。その先には木原一里塚が復元されています。



 江戸と京、どちらからも27番目の宿場袋井宿は、東海道整備時は設置されておらず、隣の見付宿と掛川宿の間に遅れて設置されました。規模は小さく、500m程の街並みですが、遠州三山や他の神社や仏閣も有りその門前町として栄えたそうです。
 袋井宿内には、高札場、宿場公園、東本陣跡、ど真ん中茶屋、袋井宿石柱などの史跡が有ります。



 御幸橋を渡った所に、高札場が復元されており、周辺は本町宿場公園として整備されているそうです。その先には袋井宿場公園と東本陣跡が有ります。袋井宿には後、西本陣と中本陣が有るのですが、民家の脇にひっそりと看板が有るようで見つけるには困難を要するみたいです。
 東本陣跡は三つの本陣の内唯一復元されています。1991年に発掘調査が行われ、建物の1分が発見された事から復元されたのでしょう。その斜め向かいには袋井宿場公園が整備されています。ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)や所さんお届けモノです!でも紹介された、丸凧の保存会も公園の側にある様です。
 少し先には、ど真ん中茶屋があります。地元のボランティアの方が運営されているとの事です。袋井市では街が東海道の真ん中と言う事でど真ん中と言う言葉が至る処に掲げられているそうです。
 その先に袋井宿石柱が立っていて、ここが東の入り口の様です。



 袋井宿に美味いもんは無いのか?思っていたら有りました。袋井で頂かなければいけません。たまごふわふわと言う料理だそうです。この料理は江戸時代から伝わる料理で卵と出汁を泡立てたような感じです、早い話が卵かけご飯の豪華版という印象を持ったのですが実際の所はどうなのでしょうか?多くのお店で頂けるそうです。
 この後は掛川宿を目指します。二里十六丁(約10.7Km)の道のりです。



オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 浜松宿~見附宿)



 見附宿を目指します。道のりが四里七丁(約14.7Km)という長い距離です。



 見附宿の西の入り口は、見附宿西木戸になります。
 浜松宿と見附宿の間には、旧掛塚街道入口、旧笠井街道入口、馬込一里塚、龍梅禅寺、神明の鳥居、子安神社、安間一里塚、明善記念館、かやんば高札場跡、六所神社、天竜川木橋跡、舟橋跡、玉座迹碑、舟橋之記碑、天竜川橋、池田の渡し、長森立場跡、宮之一色一里塚、善導寺の大楠、遠江国分寺跡、など多数の史跡が有ります。



 馬込橋東詰にある外木戸跡の標識を後に浜松宿を出発します。すぐに掛塚街道と笠井街道の入り口、その先には馬込一里塚が有りますが何れも標識のみとなっている様です。
 少し行くと、龍梅禅寺です。享保年間の浜松城主松平信祝の娘が旅の途中に病に倒れ亡くなり、この寺に葬られたという事です。その先に、蒲神明宮への入り口がありそこには神明の鳥居が建っています。
 大鳥居を過ぎると、子安神社が有ります。土地の庄屋が浅間神社から分霊したのが始まりとされますが、源範頼が娘の無事出産を願い創建したという説も有るという事です。
 暫く進むと、安間一里塚に差し掛かりますが標柱だけの様です。同じ位行くと、明善記念館があります。金原明善と言う人物の記念館で、この人物は明治から大正の実業家で天竜川の治山、治水、森林水害予防に資財を投じて貢献した人物だそうです。記念館の向には生家も有るとの事です。その先に、かやんば高札場跡、六所神社を過ぎると天竜川沿いに出ます。六所神社は、浜松市内位には何か所かある様です。篠山市の二村神社の様な感じでしょうか?
 天竜川沿いに出ると、天竜川木橋跡、舟橋跡、玉座迹跡、舟橋の記が続けて有ります。何れも標柱や碑のみです。玉座迹跡、舟橋の記は明治天皇が東幸の際、船をつなぎ橋を作ったといわれる所です。それを過ぎると、天竜橋を渡ることになります。
 天竜橋を渡ると、磐田市に入ります。橋を渡って上流には、池田の渡しが有り、付近には池田橋跡、渡船場跡、歴史風景観、などが有り池田の渡し公園として整備されているそうです。
 街道に戻ると、長森立場があります。天竜川の側に有った為、川越をする人、した人で賑っていたそうで、ここの名物に長森膏薬と言うものが有りました。あかぎれや切り傷に効いたという事です。少し行くと宮之一色一里塚の碑が立っています。更にその先、JR磐田駅前に善導寺の大楠が有ります。過っては、ここが善導寺の境内だった事からそう呼ばれているとの事で、樹齢700年以上で県の天然記念物にもなっています。現在善導寺は郊外に移転しています。
 大楠を過ぎると遠江国分寺跡に差し掛かります。天平時代の遺跡のようで、国分尼寺の講堂跡も発掘されているそうです。付近には府八幡宮と万葉歌碑が立っています。その先には、西の入り口、西木戸になります。



 見付宿は、江戸から28番目の宿場です。見附は水に接する土地で有る事が由来となっていますが、他にも京から来て初めて富士山が見える事から見附となったという説も有ります。元々遠江国の国府が置かれたところで、中世には東海道屈指の宿場でしたが、江戸時代には単なる宿場町となりました。



 見付宿には、姫街道入口、見附小学校、高札場、北本陣、南本陣、脇本陣、問屋場、東の木戸跡などの史跡が有ります。
 西木戸跡から直ぐに、姫街道入口に差し掛かります。此処が姫街道の起点になり新居関を避ける為女人はこちらをよく通っていた道です。本当は、本坂越え追分と言います。
 姫街道入口の先には、ちちんぷいぷいでも紹介された、見附小学校です。現存する日本最古の木造疑洋風小学校校舎で国の史蹟になっているそうです。隣には淡国玉神社も有ります。
 見附小学校を過ぎると、高札場、北本陣、南本陣、脇本陣、問屋場の碑や標識が続きます。問屋場から少し行くと、東の入り口、東木戸跡に到着です。



 見付宿の美味しいものですが、調べても、見付宿で食べなければならない様なものは、見つかりませんでした。
 次回は、袋井宿に向かいます。一里半(約6.9Km)の道のりです。